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『稲盛和夫一日一言』 12月28日

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 12月28日(木)は、「魂の旅立ち」です。

ポイント:現世での死とは、あくまでも魂の新しい旅の始まりを意味するもの。

 2001年発刊の『稲盛和夫の哲学 人は何のために生きるのか』(稲盛和夫著 PHP研究所)「私の歩んできた道」の項で、稲盛名誉会長は次のように述べられています。

 社会人になってしばらくして、私は仏教に親しむようになりました。本屋に行けば自然と仏教に関連する本に手をのばし、その内容にも違和感なく入っていけました。

 私の生家は浄土真宗西本願寺派で、子どものころから念仏仏教には親しんできたのですが、後に、京都市八幡(やわた)市にある円福寺の西片擔雪(にしかたたんせつ)老師との縁を得て、臨済宗妙心寺派の方々と接しているうちに禅に惹かれるようになり、一度本格的に勉強してみたい、得度したいと思うようになりました。それは、擔雪老師の人間的魅力と禅宗の教えの魅力によるものではないかと思っています。

 以前、京セラがファインセラミックスの人工膝関節を許認可を得ずに販売したということで、マスメディアから集中砲火を浴びたことがありました。
 私はあえて汚名を着せられたまま耐えようと思っていたのですが、連日マスコミに書き立てられると、憤懣(ふんまん)を抑えきれなくなり、擔雪老師のところへ行って、「じつはこんなことがあって、たいへんな目に遭っているんです」とお話ししました。

 すると第一声、擔雪老師は次のようにおっしゃったのです。
 「それはしようがありませんな。苦労するのは生きている証拠ですわ」
 慰めていただけるかと思ったら、それは当たり前だといわれる。内心、落胆していたら、続けて次のようにおっしゃった。
 「災難に遭うのは、過去につくった業(ごう)が消えるときです。稲盛さん、業が消えるんですから、喜ぶべきです。いままでどんな業をつくったかしらんが、その程度のことで業が消えるならお祝いせんといかんですな」

 まさに「積みし無量の罪滅ぶ」と、白隠禅師(はくいんぜんじ)『座禅和讃(ざぜんわさん)』にあるように説かれた。それは私を立ち直らせるには最高の教えでした。私はそれで救われた思いがしたのです。

 その後1997年、擔雪老師の導きをいただいて、円福寺で在家のまま得度しました。「どうして得度したのか」としばしば尋ねられるのですが、私はそもそも自分の人生80年として次のように考えていました。
 「生まれてからの20年は社会に出るための準備期間、20歳からの40年間は社会で働く期間、60から80歳までの20年は死出の旅への準備期間。だから、60歳で会社を辞め、お坊さんのまね事もしながら、新しい旅立ちのために仏教の勉強をしてみたい」

 つまり、私は80歳で肉体の死を迎えるにあたり、新しい心の旅、ー 魂、意識体の旅が始まるから、それまでに準備しておかなければならないと考えたわけです。
 ところが実際には、60歳の段階ではまだ第二電電(現KDDI)の仕事などで多忙をきわめ、経営の第一線から退くことができませんでした。しかし65歳になり、「残り15年しかない。もう待てない」と強く思い、実行することにしました。ですから、私にしてみれば、「やっと得度できた」というのが実感です。

 私は信仰以前の問題として、生命の不滅を信じ、死とは肉体が消えるだけで、私自身の魂は永遠だと思っています。また、その魂を磨き続けなければならないとも考えています。
 擔雪老師からいただいた「あなたにとっては、得度しても実社会で社会のために貢献していくのが仏の道でしょう」という言葉に従い、微力ながらも世のため人のために尽くし、少しでも自分の心を高めていきたいと考えています。
(要約)

 今日の一言には、「魂の旅立ちに向けて周到な準備をすべく、人生最後の20年は、『人生とは何か』を改めて学び、死への準備をしたい。そう考えて得度を決意したわけです」とあります。

 重病などにかかって医師から余命宣告でもされない限り、誰も自分がどこまで生きれるのか、知る由もありません。昨日も、突然飛び出してきた車にひかれて、親子が亡くなるという悲惨な事故が報道されていました。

 「人間は価値ある存在なのか」「この世に生を受け、生きていく意味とはどこにあるのか」
 答えの出ない本質的な問いかけではありますが、「自分がいまここに存在していること自体に意味があるのだ」と思えるよう、しっかりしたアイデンティティー(Identity)を持って残りの人生を生きていければと思っています。


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