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『稲盛和夫一日一言』 4月19日

 こんにちは!『稲盛和夫一日一言』 4月19日(金)は、「純粋な心」です。

ポイント:澄んだ純粋な心には真実が見える。しかし、利己心に満ちた心には、複雑な事象しか見えない。物事をあるがままに見ることができる、純粋な心を持つように努力することが大事。

 1989年発刊の『心を高める、経営を伸ばす ー素晴らしい人生をおくるためにー 』(稲盛和夫著 PHP研究所)「きれいな心で描く」の項で、純粋な願望を持つことの大切さについて、稲盛名誉会長は次のように述べられています。

 強い情熱は成功をもたらしますが、それが私利私欲に端を発したものならば永続性はありません。なぜなら、次第に世の道理に対して無感覚になり、強引かつ無軌道に進み始めるからです。

 成功を持続させるには、描く願望、情熱がきれいなものでなければなりません。それは、潜在意識に浸透させていく願望というものの質が問われるからです。
 本当は、一切の本能心を離れ、人類社会のためにといった、私心の無い純粋な願望を持つことが望ましいのですが、人間が私利私欲を完全に払拭することは難しいことです。

 せめて「自分のため」ではなく、「集団のために」ということに目的を置き換えるべきです。それは、目的をすり替えることによって、願望の純粋さを高めることができるからです。そうしたきれいな心で描く願望でなければ、天はかなえてくれないような気がします。

 純粋な願望を持って、苦しみ抜き、悩み果てているときに、ひらめき、道が開けることがあります。それは「何としても」という、切羽つまった純粋な願望が天に通じ、潜在的な力まで引き出して成功に導いてくれたのだと私は理解しています。(要約)

 今日の一言には、「物事をあるがままに見て、さらに自己犠牲を払ってでも成し遂げようという心構えができていれば、克服できない問題などない」とあります。

 2001年発刊の『京セラフィロソフィを語るⅠ』(稲盛和夫著 京セラ経営研究課編/非売品)「純粋な心で人生を歩む」の項で、成功の源は純粋な心であるとして、名誉会長は次のように説かれています。

 古代インドのサンスクリット語で、「偉大な人物の行動の成功は、その行動の手段によるよりも、その人の心の純粋さによる」というある聖人の言葉が残されています。

 つまり、このような手段、このような方法をとったから成功したというのではなく、それを行おうとした人の心が純粋だったから成功したのだ、と神の英知にまで辿りついた人が、今から三千年以上も前のインド古代の聖典で述べているわけです。

 「純粋な心」とは、言い換えれば、物事を行なうときの動機が純粋であり、私心がないということです。またそれは、人間として何が正しいのかということとも共通しています。

 純粋な心を身につけることによって、私たちは間違いのない人生を歩んでいくことができます。純粋で私心のない心、すなわち人間として高い見識や見解を判断基準として物事を決め、人生を歩めば、その人の人生に大きな潤いと素晴らしい成果をもらたすのです。

 このことは、成功には純粋な心が不可欠だということを意味しています。
 事業の場合であれば、持っている技術、あるいは手法、戦略、そのようなものが優れているから成功するのではなく、リーダーの心の純粋さが成功をもたらすということになります。

 このようなことを考えれば、「動機善なりや、私心なかりしか」ということについても、さらに理解を深めることができるだろうと思います。
 この「動機善なりや」の「善」は、「純粋な心」と置き換えることができます。すなわち、その動機は純粋な心から発せられたものであるやなしや。このように自問自答し、心に一点の曇りもないかどうか、自らの行いを確認しなければなりません。
 動機が善であり、私心がなければ、必ず成功すると私は確信しています。
(要約)

 我欲やさまざまな思惑、さらに今まで獲得してきた経験知といったものが邪魔して、物事に澄んだ純粋な心で臨むことなどできるはずがないでしょう、というのが、私たち凡人の一般的な認識ではないでしょうか。

 悟りの境地に近づけるほど厳しい修行をしていない人間にとって、「純粋な心」を持つのは至難なことではありますが、常に本質はどこにあるのか、何とか本質を見極めることはできないだろうか、と日々努力し続ける行為こそが、自身の心をよりピュアなものにしていくことになるのではないかと思っています。


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