『レクイエム ニ短調(独語名:Requiem in d Moll)K 626』ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ウィーン楽友協会合唱団 (S)ヴィルマ・リップ (A)ヒルデ・レッセル=マイダン (T)アントン・デルモータ (Bs)ヴァルター・ベリー 1961年10月5日~12日録音をダウンロード



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レクイエム ニ短調(独語名:Requiem in d-Moll)K. 626は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年 - 1791年)が作曲したレクイエム(死者のためのミサ曲)である。モーツァルトの最後の作品であり、モーツァルトの死によって作品は未完のまま残され、弟子のフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーにより補筆完成された。


しばしば、ヴェルディ、フォーレの作品とともに「三大レクイエム」の一つに数えられる。


作曲の経緯


楽曲冒頭、第1曲「レクイエム・エテルナム」最初の部分の自筆譜
1791年、モーツァルトはウィーンの聴衆の人気を失い、苦しい生活を送っていた。旧知のシカネーダー一座から注文を受けたジングシュピール『魔笛』K. 620の作曲をほぼ終えたモーツァルトは、プラハでのボヘミア王としての皇帝レオポルト2世の戴冠式で上演するオペラ・セリア『皇帝ティートの慈悲』K. 621の注文を7月末に受け、これを優先して作曲する。ジュースマイヤーにレチタティーヴォの部分を手伝わせてようやく完成の目処が立ち、8月末にプラハへ出発する直前、見知らぬ男性が彼を訪ねた。男性は匿名の依頼主からのレクイエムの作曲を依頼し、高額な報酬の一部を前払いして帰っていった[注 1]。


9月中旬、プラハから戻ったモーツァルトは『魔笛』の残りを急いで書き上げ、9月30日の初演に間に合わせる。その後、レクイエムの作曲に取りかかるが、体調を崩しがちとなり、11月20日頃には床を離れられなくなってしまう。12月になると病状はさらに悪化して、モーツァルトは再び立ち直ることなく12月5日の未明に他界する(享年35)。彼の葬儀は12月6日にシュテファン大聖堂の十字架チャペルで行われ、4日後の10日にはエマヌエル・シカネーダーなどの勧めによりホーフブルク宮殿の前にある皇帝用の聖ミヒャエル教会でのミサで「レクイエム」の「初演」がそれまで完成した形(第2曲以下をクワイアーは斉唱)で行われた。[1]


モーツァルトの死後、未亡人コンスタンツェと再婚したゲオルク・ニコラウス・ニッセンの著したモーツァルト伝などにより、彼は死の世界からの使者の依頼で自らのためにレクイエムを作曲していたのだ、という伝説が流布した。当時、依頼者が公になっていなかったことに加え、ロレンツォ・ダ・ポンテに宛てたとされる有名な書簡において、彼が死をいかに身近に感じているかを語り、灰色の服を着た使者に催促されて自分自身のためにレクイエムを作曲していると書いているのである。いかにも夭折した天才にふさわしいエピソードとして長らく語られてきたが、1964年になってこの匿名の依頼者がフランツ・フォン・ヴァルゼック(英語版)伯爵という田舎の領主であること、使者が伯爵の知人フランツ・アントン・ライトゲープ (Franz Anton Leitgeb) という人物であることが明らかになった。ヴァルゼック伯爵はアマチュア音楽家であり、当時の有名作曲家に匿名で作品を作らせ、それを自分で写譜した上で自らの名義で発表するという行為を行っていた。彼が1791年2月に若くして亡くなった妻の追悼のために、モーツァルトにレクイエムを作曲させたというのが真相だった。したがって、何ら神秘的な出来事が起こったわけではない。ただ、モーツァルトが自身が死へと向かう病床にあってなおレクイエムの作曲をしていたのは事実である。コンスタンツェの妹ゾフィーは、モーツァルトが最後までベッドでジュースマイヤーにレクイエムについての作曲指示をし、臨終はまだ口でレクイエムのティンパニの音をあらわそうとするかのようだったと姉アロイジアとニッセン夫妻に宛てた手紙の中で述べている。なお、イタリア語で書かれたダ・ポンテ宛ての手紙は偽作説も有力である。というのも、イギリスに滞在していたダ・ポンテが見知らぬ男性のことを知り得ないはずだから、というのが主な根拠である。


ダ・ポンテ宛の手紙
あなたのお申し出に喜んで僕は従いたいのですが、しかしどうしてそのようにすることができましょう。僕は混乱しています。話すのもやっとのことです。あの見知らぬ男の姿が目の前から追い払えないのです。僕はいつでもその姿が見えます。彼は懇願し、せきたて、早急にも僕に作品を求めるのです。僕も作曲を続けてはいます。休んでるときよりも、作曲しているときのほうが疲れないのです。それ以外、僕には恐れるものもないのです。最後のときが鳴っているように思えます。僕は自分の才能を十二分に楽しむ前に終わりにたどり着いてしまいました。しかし、人生は、なんと美しかったことでしょうか。生涯は幸福の前兆のもとに始まりを告げたのでした。ですが、人は自分の運命を変えることは出来ません。人はだれも、自分で生涯を決定することは出来ないのです。摂理の望むことが行われるのに甘んじなくてはいけないのです。筆をおきます。これは僕の死の歌です。未完成のまま残しておくわけにはいきません。
この文は全文がイタリア語で書かれており、死の年の9月に書かれたとされるが、自筆の書簡は失われており、偽作という疑いも強い。なお、初めの文での「あなたの申し出」とはダ・ポンテがモーツァルトにイギリス行きを勧誘したことであり、後半の「死の歌(カント・フネープレ)」というのはもちろん、レクイエムのことである。また、この手紙が一般にダ・ポンテ宛てだと言われているのは、全文がイタリア語で書かれているということからの推測に過ぎず、確固たる根拠はない。


作品の補筆から初演・出版


コンスタンツェ
モーツァルトの死後、貧窮の中に残されたコンスタンツェは、収入を得る手段としてこの作品を完成させることを望んだ。まず、モーツァルトも高く評価していたヨーゼフ・アイブラーが補作を進めるが、なぜか8曲目の途中までで放棄する。作業は他の弟子、ヤコプ・フライシュテットラーおよびジュースマイヤーに委ねられ、ジュースマイヤーが改めて一から補筆を行って最終的に完成させた。完成した総譜は作品を受け取りに来た使者ライトゲープを通じてヴァルゼック伯爵に引き渡され、コンスタンツェは作曲料の残りを得た。


伯爵は自分の作品であるとして、1793年12月14日にウィーンのノイクロスター教会において自身の指揮でこの曲を演奏したが、コンスタンツェは手元に残した写譜から亡夫の作品として出版する。このため後に伯爵が抗議するという一幕もあったというが、モーツァルトの名声はすでに高まりつつあり、この作品はモーツァルトの作品として広く認知されるようになった。なお、ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵の計らいで、コンスタンツェのために1793年1月2日に本当の初演が行われたという説がある。


典礼の際に利用するため、「リベラ・メ」【我を救い給え】の補作が行われることがあった。著名なものに、1819年にリオ・デ・ジャネイロで演奏するために作曲されたジギスムント・フォン・ノイコムによるものと、1827年のベートーヴェンの葬儀で演奏されたイグナーツ・フォン・ザイフリートによるものがある[2]。


注釈
1^ 作曲の依頼時期は伝記などでは7月説もある。本稿ではより合理的なH. C. ロビンズ・ランドンの説を採用した(末尾の参考文献)
2^ リチャード・モーンダー(ドイツ語版)やロバート・レヴィンなど。しかし、例えばロビンス・ランドンは「レクイエムのためではなく、(同じくニ短調の)キリエ K.341(英語版)などを含んだ未完のミサ曲のもの」と主張している。


出典
1^ Mozart『Requiem』(Baerenreiter-Verlag Karl Voetterle GmbH、2017)のChristoff Wolffによる前書き
2^ “知性派古楽奏者スホーンデルヴィルトによる新しいモーツァルトのレクィエム”. lohaco.jp. 2018年11月21日閲覧。

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