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隣のおともだち

「隣の“おともだち”と手を繋いでね」
という大人の声掛けに何度困惑したことか。

幼少期、同年代の子どもが苦手だった。
商業施設のキッズコーナーでの出来事だったように思う。
当時の私からすれば、商業施設はまず
「人間いっぱい」、「騒がしい」、「同年代の子どもがたくさんいる」
と苦手三拍子揃い踏み。
まさに地獄のような空間であった。
そこに来てキッズコーナーなんてただでさえ大量発生している子どもを凝縮する訳だから地獄どころの騒ぎではない。
煮えたぎる地獄の鍋の中で煮込まれるようなものである。

地獄鍋の話はさておき。
「隣の“おともだち”と手を繋いでね」
に並々ならぬ気持ち悪さと居心地の悪さを感じ、挙句泣き出した私。
今となっては隣にいた両サイドの“全く存じ上げない同年代と思しき子ども”には大変申し訳ないと思う。
だって、これまた“全く存じ上げない同年代と思しき子ども”に手を繋ぐことを盛大に拒絶されるのだから、決して良い気はしないだろう。
謝れるものなら謝りたいが、到底不可能なので一生かけて償いたい。
大袈裟か。

大人になった今、当時の自分くらいの年頃の子どもを見ると
「この中の何人くらいが“おともだち”に違和感を覚えているのだろう」
と考えてしまう。
そして気をつけていることがある。
安易に“おともだち”という言葉を使わないようにすることだ。
あの違和感からくる気持ち悪さと言ったらない。
タートルネックを着ると絞殺でもされるのでないかというくらい苦しくなるあの感覚と同じだ。
こういうことを言うとより
「訳がわからない」
「余計に話が見えなくなった」
と言われがちだが、この表現が私にはしっくりくるのだから仕方がない。

“おともだち”については辞書的な意味でしか理解できていない。

ただ、私が“おともだち”を定義するならば相手の話に興味が持てる、自分にない何かを持っていてそれが私の好奇心を刺激するから一緒にいて楽しい、無言で共に過ごす時間も妙に心地いい、とする。

私にとっての“おともだち”、は大切だと思う人たちである。

しかしながら私のような人間が人様のことを
“おともだち”と言うのはどうにもおこがましいように思えてなかなかできない。

それにしてもあんなに苦手だった大型商業施設も現在では克服している。
寧ろ好きだ。
私の興味関心を見事に刺激する人物がいるのだ。
その奇跡的な人物と共に商業施設に置かれたソファに座りガラス張りの区画から歩く人々にアフレコする。
これがもう止まらない。
何時間でもやっていられる。
これは案外(?)、
「やめなよ」だの「何が面白いの?」と言われがちなのだ。
一緒になって無限にアフレコしてくれるなんて。

アイデアが湧き続けるとはこのこと。 

こういう関係性は“おともだち”なのではないかと思っている。
…リスペクト、それもまたしかり。

【以下余計な話】
当時商業施設に存在していたフードコートで泣きながら食べた夕張メロンソフト、あの味は一生忘れない。

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