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ハンニバル アンソロジーstigmata スティグマータ  聖痕(せいこん)

   第2章    カーチャとアグニア



「彼は悪魔だわ。あんなこと、許されないことよ、私たちいったいいつまで彼のあの行為に従わないといけないのかしら?」
   そう言うと私は鏡に向かって髪を梳かす彼女を見て、あなたもそう思わない?と聞いた。
   「何も考えては駄目よ。私たちはただ黙ってご主人様の言いつけに従う人形にならないと、そうじゃないと、ここにはいられないわ。」
   そう言うと彼女はベッドに座ってうなだれる私の隣に座ってきた。
   「カーチャ。よく聞いて、あなたが優しくて慈悲深い人なのは、私が誰よりもよく知ってる。だからあなたがお嬢様のことをいつも気にかけて、彼女に同情して何とかしてあげたいと思う気持ちはよく分かるわ。
   でも思うだけにしておいて、私たちには彼女は救えないの。なぜなら私たちは単なる召使いだから。私たちには何の力もないの。」
   そう言う彼女に私は、そんな。と言って首を振って否定した。
   「だいいち、私たちに旦那様のことを非難する資格があると思う?
   私たちこそ、世間に知られたらどんな扱いを受けるか分からない、許されない存在よ。」
   そう言うとアグニアは私の髪を撫でてきた。
   「なぜ?私たちが女同士だから?女同士は愛し合っちゃいけないと言うの?」
   と私が言うと彼女は頷き、世間一般ではね。と返した。
   「この城の中だからこそ、私たちはこうして二人でいても目立たずに暮らせるの、外の世界に出たら、結婚もせずに子どもも持たないオールドミスがどんな目で見られるか、あなたは外の世界を知らないから、そうして他人のことを気にかける余裕があるだけよ。」
   そう言って私の髪を撫でてくる彼女の手を取ると私はその手にキスをした。
   「ええ、分かってる。ここだけが私たちに許された場所だと、私だってよく分かってるわ。だけどお嬢様のあの姿を見るのは耐えられないの。
   あの痩せこけた、生気のない目。部屋から出ることも許されない、子どもを産むためだけに生かされているなんて、ねえ考えてみて、もしあれが自分だったらと、あなたなら耐えられる?」
   そう言うと私はアグニアの瞳を覗いた。
   「考えたこともない。それに世の女性たちはみんな多かれ少なかれ、子どもを産むための道具よ。私たち女には、生きる道が限られているの。
   私たちも、ここを出ればきっと、好きでもない男と結婚して、豚のように沢山の子どもを産んで、ただただ家事と子育てに追われる。お嬢様とそう大差はないわ。」
   と返した彼女の言葉に、
   「あるわ。少なくとも私たちには、そのどちらかを選ぶことができる。
   だからこそ私はあなたに出会えたのよ。だけどお嬢様にはその機会すらない。
   彼女はまるで豚のように飼われているだけよ。
   彼女は豚じゃない、人間よ。」
   そう言う私の顔をアグニアは両手で挟むと撫でてきた。
   「いいえ、豚よ。旦那様にとってはね。」
   彼女はそう返すと、もう寝ましょう。この話はお終い。おやすみカーチャ、いい夢を。と言うと私の額にキスをして部屋の明かりを落とした。


   僕は森の中を歩く召し使いの女性を追うとその手を掴んだ。
   女性は驚くと振り返って僕を見てきた。
   「何?脅かさないで。」
   と返した彼女に詫びると、
   「ごめん、てっきりあの人だとばかり思って、何て名前だったかな?いつもうちに来る彼女。」
   と言う僕に召し使いの女性は、
  「あなた森番のリュカよね?あなたの家に行くのは、確かアグニアだったと思うけど、それが何?彼女に用事?」
   と返した召し使いに、
   「彼女と話したいんだ。今夜うちで待ってるって伝えてもらえるかな?」
   と言うと召し使いの女性は驚くと僕をまじまじと見てきた。
   「いいけど、彼女もう30代よ?あなたには年上すぎじゃない?それに彼女は・・・。」
   と僕の話を履き違えて捉えているらしい召し使いに、彼女は何?と聞くと、
   「彼女は男が嫌いなのよ、だから無理だと思うけど?」
   と返した召し使いに、とにかく、伝えてくれればいいから。と頼むと僕はその場を後にした。



   その夜、ドアをノックする音に僕は急いで応えるとドアを開けて驚いた。
   フードを被っていたその女性は、いつも来る彼女とは違う女性だった。
   「えっと、僕はアグニアを呼んだつもりだったんだけど、どこかで話しが行き違ったのかな?君は?」
   と聞くと召し使いの女性はフードを下ろすと、
   「私はカーチャよ。アグニアとは同室なの。入ってもいいかしら?」
   と言う彼女に僕はどうぞ。と彼女を家の中へと招き入れた。



   「アグニアじゃなくてごめんなさい。あなたから彼女に話しがあると聞いて、閃くものがあったの。
   あなたよね?エレナお嬢様に時々お見舞いの品を送っているの?」
   そう聞いてきた彼女に僕は頷いた。
   「あなたはエレナお嬢様と、どういう関係なの?」
   と言う彼女の質問に、
   「僕と彼女は幼なじみだ。僕は生まれた時からこの森に住んでる。僕の父さんが森番だったから。」
   と僕は返すと、彼女に紅茶を薦めた。
   ありがとう。と言うと彼女はカップを両手で持ってしばらく下を向いていた。
   「エレナお嬢様はあなたのお見舞いの品を楽しみにしていらっしゃるわ。
   あなたが自分のことを気にかけていることが、嬉しいんでしょうね。」
   と話す彼女の言葉に、
   「あなたはエレナお嬢様と話したりするの?彼女は何か僕のことを話した?」
   と僕が聞くと彼女は首を振った。
   「エレナお嬢様と口を聞くことは禁じられているわ。彼女も何も話さない。でも表情を見ていれば分かるわ。
   あなたの見舞いを受け取った時の彼女の顔、あなたに見せてあげたい。」
   そう言うと彼女は僕を見て微笑んだ。
   「アグニアじゃなくて、あなたが来たのはなぜ?僕に何か話したいことがあるの?」
   と聞くと彼女は再び下を向いて何かを考えているようだった。
   「あなたはアグニアが持って来る麻袋の中に、何が入っているか知っている?」
   その言葉に僕は彼女の顔をじっと見つめた。
   この人は知っているんだ。あの袋の中身を。知っていて、アグニアの代わりに僕を訪ねてきたのはなぜなのか?
  彼女の訪ねてきた意図は何なのか、袋の中身が中身なだけに、迂闊なことは出来ない。



   「あなたはなぜ僕を訪ねてきたんだ?僕が話したかったのはアグニアだ。あなたには話すことは何もない。」
   そう言うと僕は立ち上がった。帰ってくれ。と言う僕に召し使いの女性は慌てて立ち上がると僕の腕を掴んできた。
   「私の推測が正しいなら、あなたはエレナお嬢様のことをとても気にかけている。そして、彼女の身に何が起きているかも知っている。その上でアグニアに話したいことがあると言うことは、あなたは私と同じことを考えている。」
   彼女はそう言うと僕の目をじっと見つめてきた。  
   「エレナお嬢様を助けたいのよね?安心して、私も同じよ。」
   そう言うと彼女は僕に、座って話しましょう。と言うと僕の腕を離した。

   

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