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ハンニバルアンソロジー  stigmata スティグマータ聖痕(せいこん)第1章 エレナ





  激しい雨の中、その女は従者の持つ消え入りそうな松明の火を頼りに夜の修道院を訪れていた。
   濡れた重いドレスを引きずり、修道院の扉の前に立つと間もなくして扉が開いた。
   


   「このような夜更けに貴女のような方が何の御用で訪ねていらしたのでしょう?」
   応対に出てきた修道士は、女の高貴そうな身なりを見て不思議そうに尋ねてきた。
   「夜分遅くに突然訪ねた無礼を、どうぞお許しください。
   わたくしはモスクワ大公ヴァシーリ3世の妻、エレナ    グリンスカヤと申します。
   聖キリルにどうしても祈願したい願いがあり参りました。」
   そう答えた女の、松明の火に照らされた美しい顔に、修道士はハッとすると、
   「これは失礼を致しました。このような雨の中、よくおいで下さいました。さあ、どうぞ中へお入り下さい。」
   修道士は女の高貴な身分を聞くと、途端に態度を変え、うやうやしく女を誘い修道院の中へと招き入れた。
   「この雨で身体が冷えておられるでしょう。今暖かいワインをお持ちします。」
   と腰を折る修道士に、
   「どうぞお構いなく。わたくしは聖キリルと静かに向き合い、祈りを捧げる為に参りました。
   これよりの時間はただ一心に祈りに向き合いたいのです。」
   と女は返すと、修道院の中央に飾られた聖キリルのイコンの前で跪いた。
   手を組み、首を垂れて目を閉じた女の姿に、修道士は静かにその場を去った。




   「聖キリル。わたくしはモスクワ大公の妻エレナ   グリンスカヤと申します。
   どうかわたくしの願いを聞き入れて下さいませ。
   大公との間に、どうしても子供をもうけたいのです。大公は嫡男を待望しております。
   わたくしの役目は跡継ぎとなる男の子を産むことです。それが叶わなければ、わたくしには何も価値がないのです。
   どうかお願いです。なんとしてもわたくしに男の子をお授け下さい。
   願いを聞き入れていただいた暁には、こちらの修道院に多額の寄付をさせていただきます。」
   どうかどうか。と、女は心の中で強く願った。
   


   聖キリル修道院で祈りを捧げてよりひと月が過ぎた頃、女は朝の淡い日差しの中で自分の寝台の中で飛び起きた。
   シーツを急いで剥ぎ取ると、そこにはわずかな血痕があった。
   「そんなッ!」
   月の物が来てしまった。また身籠っていない。このままでは離縁されかねない。何か、何か方法は無いのか?何でもいい、とにかく男の子を身籠もらなければ!


   女は寝台の周りをうろうろと歩きながら親指の爪を強く噛んだ。
   「そうだわ、もうあれ以外には方法は無い。」
   そう呟くと女は物書きようの机に向かって取り出した羊皮紙に羽ペンで何かを書いた。
   書き終えるとその羊皮紙を丸め、紐で結んで結び目を朱肉で止めた。
   その朱肉に家紋の入った印を押すと女は従者の名を呼んだ。



   「グリンスキー家の娘エレナ。モスクワ大公ヴァシーリー3世の息子を授かりたいのだな?」
   そう聞いてきた一人の老女の前で、女は跪き頷いた。
   「願いを叶える為には、その願いと同等の対価を払う必要がある。
   だがしかし、その対価が何であるかは、今この時には測れない。
   命の対価は同じく命だ。そなたに息子が産まれた後、必ずや替わりの者の命が失われる。
   その時も、その者も、選ぶことは出来ない。それを聞いてもなお息子を望むか?」
   老女の言葉に、女は力強く頷いた。
   

   その決意の固さに、女の周りにいた数人の女達が集まると女を中心にして円を作るように並んで立った。
   「この場で見聞きしたことは、決して口外してはならぬ。この誓いを破れば、必ずやそなたとそなたに連なる者達に災いが降りかかる。」
   そう言うと老女は女に、口を閉ざし、目を閉じていろ。途中に何が起ころうとも、決して動いてはならない。岩のようにただその場で跪いておれ。と忠告した。
   女は手を組むと、目を閉じて首を垂れた。
   



   その後、女は無事に男の子を授かった。
   イヴァンと名付けられたその男の子は、後にロシア最初のツァーリとなる。
  イヴァン雷帝と呼ばれた皇帝へと育つのだ。


   「イヴァン雷帝は有名だよな、知ってるよ。自分の息子を怒りに任せて殴り殺した話でよく知られてるよな。」
   と僕が言うと、ハンニバルは隣のベッドに座りながら頷き返してきた。



   僕らは今、フィンランド北部にあるラップランドに来ていた。
   ここは、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ロシアにまたがる地域にあり、北欧の文化を売りにした観光業で栄えていた。
   オーロラを僕に見せたい。と言うハンニバルの希望と、犬ぞりをしたい。と言う僕の希望を合わせると、このラップランドの地にある、カクシラウッタネン。というホテルがそのどちらも体験出来る、僕らにはうってつけのホテルだった。
   僕らは今、そのホテルの客室のひとつである、ガラスイグルーと呼ばれる全面ガラス張りのドーム型の部屋の中にいた。
   この部屋はベッドの上で横になりながらオーロラ観測が出来ることを売りにしていた。
   確かに、氷点下の寒空の下で、いつ現れるとも知れないオーロラを待つよりも、暖かい室内でゆったりとオーロラ観測出来ることは魅力的だ。しかし、夜空に輝くオーロラを観測することを第一の目的としたこの部屋は、プライバシーが全く無いので、隣のイグルーも丸見えだった。  
   隣が見えているということは、もちろん僕らの部屋も丸見えだと言うことだ。
   時刻は夕方になり、空には徐々に夜の帳が下りてきていた。僕はベッドに横になってガラス張りの屋根から暮れていく空を見上げていた。
   「寝ながらオーロラを見れるのは有難いが、部屋の中が外から丸見えなのは落ち着かないな。先に言っておくが、妙な気は起こすなよ。僕にはあなたのような嗜好は無いからな。」
   と隣のベッドにいるハンニバルにクギを刺すと、彼は呆れた顔を寄越した。
   「またそうやって私を煽ってくる。君は全く学習しない人だね。私が四六時中そのことばかり考えているとでも思っているのか?」
   と返すので、違うのか?と言うと、彼は大きなため息を返してきた。
   「衆人環視の中で君を抱くことが私の嗜好だと思っているのは、君にそういう希望があるからだ。君に言われるまで、全くそんなことは思いもしなかったのに、そうやって私を煽ってくるのは、いつも君の方だ。
   私の嗜好のせいにするのは卑怯だよ。」
   と訴えてきた彼の顔を、僕はまじまじと見ると、またこの議論をするのか?と顔をしかめた。
   「最初に始めたのは君だ。私としては、君が望むならその期待に応えてあげることは、やぶさかではないけどね。」
   と返す彼のしたり顔を、僕はため息をつきながら呆れ顔で見ると、
   「そんな話より、さっきの話の続きをしてくれ。
   あなたの生い立ちの話を聞いていたのに、なぜイヴァン雷帝の話になった?あなたとどう関係がある?」
   と僕が聞くと彼は、エレナだ。と返すと、
   「イヴァン4世の母親のエレナは、リトアニア大公国の貴族、グリンスキー家の生まれだ。レクター家はグリンスキー家の流れをくむ家系だ。
   私の祖父は、よくその話をしていた。レクターの血筋が如何に尊く、エレナが成し得た功績が如何に偉大であるか、そしてロシア最初のツァーリとなったイヴァン4世が如何に偉大な存在であるかを、事あるごとに説いていた。」
   と彼は続きを語り始めた。




   エレナを聖母のように崇拝していた祖父は、自らの一人娘である私の母に、その名を付けた。
   イヴァン4世の母親であるエレナは、非常に計算高い野心家だったと、私は考えている。彼女は自らの地位を確立する為にも、嫡男を産む必要があった。
   彼女はその為に、フィンランドの先住民族であるサーミ人の魔女を呼び寄せ、魔術によってイヴァン4世を産んだとも言われている。
   そして彼女は夫である大公の死後、まだ幼いイヴァン4世の事実上の摂政となると、大公の二人の弟を失脚させた。
   息子の血筋を利用して、自らの地位を確立しようとした女傑の彼女と、私の母のエレナは全く似ても似つかない、私の母はその対極にいるような、脆弱な人だった。


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