名古屋エッセイ(3)名古屋港、懐旧
職場の人によく行く場所をたずねて、大須商店街(前回ご紹介)の次に多かったのが、今回紹介する名古屋港だ。
僕は親の事情で一時期、愛媛県宇和島市の海の見える場所で過ごしていたことがある。
それは物心つく前なんなら生まれて数ヶ月だけで記憶はまったくないのだが、なぜか海を見ると懐かしい気持ちになる。もしかしたら多くの人が感じる、DNAに刻まれている何かが共鳴して起こる感情なのかもしれない。
が、ともかく僕は海を見れることを楽しみにしていた。
港と聞いて、想像していたのは横浜。なんとなく港の付近に商店街や中華街といったものが広がっていると思っていたのだが、名古屋港は違った。周りにあるのは展示会場になっている船と、広場、水族館と本当に小さな遊園地くらいだった。
大須商店街のように食べ歩きができることを期待していたのもあって、少しショックだったが、むしろこの方が海本来の静かさに近くていいかもしれないとも思った。
平日なのもあって人は多くなく、近くにあった小さな商業施設も人はまばらですぐにご飯にありつけた。
フードコートで昼食をしたあと、商業施設を歩き回った。
1階にはドクターフィッシュが体験できるコーナーがあったので試したのだが、なかなかこそばゆい。終わった後には肌が綺麗になったというか、ツボを押してもらったような感覚があって、足が軽くなった。
全て回った最後にすれば良かったとやったあとで思い当たったが当然遅かった。
2階にはテーブルと椅子が多くあって、普段であればここもにぎわっているのだろうなという見えない余韻みたいなものを感じた。
奥にはゲームセンターがあり、だいぶ古い太鼓の達人があってプレイした懐かしい歌が最新曲として扱われているのは時が止まったみたいだったが、筐体の横の景品コーナーに置かれたスプラトゥーンのぬいぐるみたちがいやがおうにも現代であることを教えてくれる。
次に水族館に行った。入ってすぐにシャチが出迎えてくれ、同行人は惚けたように見上げていた。他にもイルカが縦に登っていく様子、かゆいところをかくみたいにガラスにぶつかって体を擦り付けるシロイルカ、陸上にいるときはヨチヨチ歩きなのに、水中に入った途端にスピーディーになるペンギンなどさまざまな動物たちが出迎えてくれ、自分が小さな頃に感じていた感覚を思い出せた。
水中に自分の体があることを想像し、その得体の知れなさに少し震えながら動物たちを眺め、時間がちょうどぴったりあったのでイルカショーも見た。
子ども向けかと思えば、自然を守るためにしている活動なども紹介され、ワクワクするだけでなく知識欲も満たされて、大人も楽しめるようにできているのはさすがだったし、もちろん飛んで泳いで踊って、前ヒレや尾ヒレをひらひらさせるイルカは圧巻だった。
水族館を出て、モアイ像があるというところに向かうため、橋を渡る。そこでようやく海をじっくり見ることができた。
海は、広かった。
その広さを邪魔するかのように水平線より手前に街が見える。
自転車で琵琶湖に行ったときを思い出していた。琵琶湖は海ではないけれど、向かいに街など見えなかった。ここ先に何もないと思うほどではないが、それでも泳いで渡ったら大変そうだなと思う。
比べて、名古屋港から見える街は、泳いでもいけそうだな、と思った。
波が打ち寄せている訳でもないのに少し揺れる船を横目に橋を渡りきってしばらく歩くとモアイが見えてきた。
モアイがあると聞いて、4、5体ほどを想像していた僕は、目にした瞬間「え、少な」と言ってしまう。
あったのはたった一体の目を見開いたモアイ。
しかも本家のモアイ像と違って雄大な海を見つめているわけではなかったので、なぜあるのか不思議だった。
キャプションを読んで納得するより、笑ってしまった。なんとも不気味って書いちゃうんだなと。
滞在時間が5分も経たないうちに、モアイ像をあとにし、向かったのは水族館のそばの遊園地。
水族館の大きさとは相まってなんとも小さく、アトラクションは少ない。遊園地もあるよ! と言われてきたら落ち込んでいただろう。水族館があるとしか言わなかった職場の人間に感謝である。
遊園地は小さな子ども向けのものが多かった。たくさんのボールが入った部屋や、恐竜や幽霊を倒すVRアトラクション、乗り物も大人がギリギリ乗れるサイズで、それも子どもの付き添いで仕方なくといった顔をしないと乗るのは恥ずかしいくらい子ども向けだった。
他にはアンパンマンの乗り物や射撃、ゲームセンターもあったが、やはりどことなく小さな子向けという雰囲気は拭えない。
結局メインの観覧車にのみ乗ることにした。観覧車から見る景色は、片方が海、もう片方が街だったが、どちらも終わりが見えない。ここから見える建物全てに人間がいるのだと思うと、自分のこのエッセイを読む人が百人くらいいてくれることはそう難しくないように思えた。
この街の、観覧車から見えるだけの範囲の中でたった百人が僕の書くものを喜んで読んでくれたらいいな、という思いが一つ芽生えた瞬間だった。
20分ほどで一周を終え、帰路に着く頃には夕暮れ初めていた。橋から見る海や船、空気さえも薄いオレンジを帯ていて、その三〇分にも満たない輝きが、これから夜になるということをありありと表していた。
思えば京都では海とは無縁だった。
住んでいるところから一時間とかからずに海に着くところに(物心着いてから)初めて暮らしているのだなと思うと、ようやく自分が都会にやってきたことを実感できた。
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