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北海道の義経伝説について

最近、北海道の口承文芸(伝説、昔話など)についての本を読んでいます。
「北海道=アイヌのお話」のイメージが強かったのですが、本州から北海道にやってきた人々から伝わった話も意外と残っていることに驚きました。

特に印象深いのが義経伝説。
源義経が奥州から逃れ、モンゴルに渡ってチンギス・ハンとなった説は有名ですが、「義経が北海道に渡った」という噂話も、江戸時代初期にはすでにあったらしいです。
(まず北海道に渡った話があり、それが飛躍して義経=チンギス・ハンの話になった、という説も)

英雄の死を信じたくない民衆の、「どこかで生きているに違いない」という願望から、このような伝説が生まれたと言われています。

では北海道の義経伝説にどんなものがあるか見てみます。

1.義経の雷電越え
 義経と弁慶が北海道に渡り、今の弁慶岬(寿都郡寿都町)で暮らしているときに、その地のアイヌの女性が立派な巻物を持っていることが分かった。
 義経はその巻物を隙があれば盗ろうと思いながら2年くらいその女性と同棲し、ある日ついにその巻物を取って逃げ出した。そしてある峠に差し掛かった時に、追いかけてくる女性に向かって「来年も来る」と言ったので、その峠は来年峠となり、いつしか「雷電峠」と言われるようになった。

雷電峠は、今の岩内郡岩内町と磯谷郡蘭越町の境にあるそうです。
元々アイヌ語だった地名に後から義経伝説を付け足したと思われますが、秘術を盗む場面や女性が追いかけてくる場面などは日本書記や古事記にもありそうな話で、本州の伝説や昔話と似通っているように感じます。

2. 義経と魔法の一巻
 義経一行が日高平取にいたころ、この地のアイヌの大酋長の家を訪ねたが、酋長は狩猟に出ていて彼の一人娘が留守番をしていた。義経は酋長の秘蔵している巻物(魔法を使えるようになる)を奪おうと考え、娘に見せてくれるように頼んだ。最初彼女は父の不在を理由に断ったが、義経から何度も嘆願されて断り切れず、奥の部屋から秘蔵の巻物を持ってきた。
 義経はそれを見るような振りをしていたが娘の隙をついて巻物を奪って逃げた。山にいた酋長は鳥の鳴き声で異変を察知し急いで帰ってきたが、巻物を盗んだ義経はすでにはるか沖合いの舟の上だった。
 酋長は義経を追う。酋長の舟は一漕ぎで千里を走る魔法の舟だったのでたちまち義経に追いつきかけた。しかし義経は巻物の力で海に大きな山を作ってさえぎった。酋長は船から降りて義経を追いかける。義経は今度は大きな沼を作ったが、酋長は水の上を歩ける草履をはいて義経を追いかけた。最後に義経は魔法で大きな断崖を築き、とうとう酋長から逃げおおせた。
 この魔法の巻物にはアイヌ文字のすべて書かれていたので、以来、アイヌに文字がなくなってしまった、と言われている。

これも上の話と似たような伝説ですが、終盤の魔法合戦は昔話の「3枚のお札」に代表される呪詛逃走譚の要素が出ています。
乙女を騙して秘術(秘宝)を奪う義経。
このような人物を知略に長けた英雄と見るか、恩知らずの盗人と見るかは読む人によって判断が分かれるところでしょうか……
本州から来た人やアイヌの人々がどのような気持ちで義経伝説を語り伝えたか気になるところです。

3.白糠のオショロコツ(尻跡)
 釧路の知人岬で、義経と弁慶が弓矢の飛距離を競っていた。勝負に勝った義経が自慢していると、海の方から「そんなに威張るな」という声が聞こえた。見ると波間からトド(クジラの説も)が顔を出して笑っているので、怒った義経はすぐさま射殺して、串焼きにしてしまった。
 焼けるを待っているうちに義経は居眠りし、その間に油で串が焼けて、トドが大きな音を出して火の中に落ちた。びっくりした義経は尻もちをついて、その時にへこんだお尻のあとがオショロコツと呼ばれるようになった。

雷電峠と同じく地名の由来譚ですが、なかなか義経がユーモラスで面白い話だと思います。
同じような窪地などの由来だと、本州ではダイダラボッチの足跡などが有名ですね。

以上、北海道に残る義経伝説を見てきました
どうして義経伝説が北海道に広まったのか。
それがどのように民衆の中に浸透していったのか。
本州から来た人とアイヌの人で捉え方にどのような違いがあったのか。
なかなか興味が尽きない話題です。

もしかしたら、すでにまとまった研究があるかもしれませんので、引き続き勉強したいと思います。

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