見出し画像

【小説】 愛のギロチン 7

画像1

マガジンTOPへ

7

運転手は、さすが運転手と言うべきか、ここに住み初めて長い俺でも知らない裏道をスイスイと進んでいき、やがて大通りに出た。

昨日寄ったコンビニや飲食店の並ぶあの通りではなく、もっと広い国道だ。平日の昼間なら多くのトラックが我先にと走り行く煙たい道路だが、土曜の朝だからか、思ったほど混んではいない。

道沿いにあるファミリーレストランや紳士服店もまだ開店前で、これからツーリングにでも行くのだろうか、コンビニの前に派手なバイクが数台並び、チャラい男たちが笑い合っている。日に焼けた肌と長い髪。サングラスとピアス。悩みのなさそうな笑顔、そして店内から、彼らの連れらしきギャル風の女たち。

俺の一番キライなタイプの人間。

俺とは一生縁のないだろう人間たち。

瞬間的に膨れ上がる黒い気持ちを、押さえつけるでもたしなめるでもなく、視線を外すことで無かったこととする。何度も繰り返したこの工程は精度を上げ、今や俺自身も気付かぬくらい上手に、俺を騙してくれる。

俺は何も見ていない。誰のことも見ていない。

気付けば俺は車内に顔を向け、隣に座る老人を見ていた。

大貫老人は妙に姿勢よく座っている。背をピンと伸ばし、膝に手を置き、まっすぐ前を向いて。昨日はくたびれた肌着だったが、余所行きということなのだろうか、灰色の襟付きのポロシャツを着ている。老人が好んで着る、独特の柄とデザインのあるポロシャツで、妙なもので昨日の肌着姿よりも年寄り臭く見える。

「……それで、どこに行くんです?」

相変わらず脈打つように続く頭痛にどこか安心しながら、言った。大貫老人は俺の方を見ないまま、「どこって、病院に決まってるだろうが」と答えた。

「病院……ああ」

微かな納得感があって、少し遅れて脳内データベースから記憶が引っ張り出される。昨晩、病院に行ったほうがいいのではないかと言う俺をこの爺さんは阿呆呼ばわりしたのだった。曰く、こんな時間に病院がやってるかよ、阿呆。

「付き添い……ってことか」

わざと独り言めかして言った。大貫は真面目くさった顔で頷く。

「そうだ。病院の中まで運転手に介助させるわけにはいかんだろ」

その言葉に運転手がこちらを振り返り、真後ろにいる大貫には見えぬ角度で忌々しげな表情を見せた。鼻元によった深いシワと尖らせた口元を見て、ああなるほど、と思う。大貫がどうやって階段を降りたのか、そしてなぜ運転手が執拗なノックを続けたのか、その理由がわかった。

要するに大貫は、タクシー運転手に手伝わせて階段を降りたのだ。そしてもしかしたら、病院内での介助まで命じたのかもしれない。こんなわがまま爺さんには付き合いきれないと、運転手は新たな生贄である俺を意地でも召喚したかったのだろう。あるいは最初から大貫は、俺の名前を出していたのかもしれない。

おおよその流れは想像できたが、だからといって納得できるわけでもない。運転手がダメで、なぜ俺ならいいと思うのか。同じアパートの同じ階に住んでいると言っても、数度見かけたことがある程度で、言葉を交わしたのは昨日が初めてなのだ。その昨日にしても、別に仲良くお喋りしたわけではない。

頭の中には映画字幕のような文句が次々現れるが、それが実際のセリフとして口から出ることはない。無声映画のように、文句は音もなく表示され、そして消える。我ながら本当に意気地のない人間だと思う。だから上司や客にも、いや、後輩にすら舐められる。影で自分が何と言われているか、俺は知らない。それは陰口上手の人間に囲まれているからではなく、そもそも俺が彼らの話題に上がることがないのだろう。

「仕事は何だ?」

脳内の無声映画が展開する中、どこか真剣にも聞こえる口調で大貫が言った。俺は映像を一旦停止し、大貫の方を見る。

「仕事?」

「ああ、あんたはどんな仕事をしているんだ?」

どういうつもりなのだろう。いや、よく知らない人間に職業を聞くこと自体は珍しくはない。だが、べらんめえ口調で人を迷いなく阿呆扱いしたときとは違う、まっすぐこちらを見つめる表情に違和感を覚える。老人とは思えないその眼力に思わず目を逸らし、言う。

「……どんなって、別に普通の営業です。求人広告の」

「求人広告の……そうか」

大貫は一瞬驚いたような顔をし、それからなぜか微笑むような表情をした。

一体何なのだ、この爺さんは。自分から大貫に向いていた苛立ちや不満が、突然グルリと反転して自分に向けられた感覚。それはじっとりと俺を見ている。急に不気味さを覚えた俺は、これ以上の詮索を拒絶するつもりで、独り言のような笑みを浮かべる大貫の顔を覗き込みながら言う。

「……でも、辞めるんです。今は有給消化中で、1ヶ月後には退職です」

大貫は顔を上げて俺を見た。その眉間に深いシワが寄っている。

「なんだと?……どうして辞めるんだ」

どうしてって……。別にあんたには関係ないじゃないか、と思う。俺が会社を辞めようが、別にあんたの生活に何の影響もない。だいたい、話したところであんたに俺の気持ちがわかるはずもない。俺がなぜ会社を辞めなければならないのか、そして、どんな気持ちで人生を生きているのか。

脳内のセリフはベテラン事務員のようにサクサクとタイピングされ、そして消えていく。実際の俺が口にしたのは毒にも薬にもならない言葉。

「どうしてって……まあ、そろそろ次のステップに、というか」

「……」

大貫は何か言いたげに俺の顔を見つめる。俺は思わず視線を逸らす。

……何が次のステップだ。何も決まってなどいない。頼みだった後輩の社長には、自分の会社へと誘われるどころか、お前の価値観は通用しない、今のままでは喰っていけるはずがないと説教される始末だ。

やはり退職を考え直すべきだろうか……。だが、今更そんなことを言って会社が受け入れてくれるとは思わない。何しろ俺は会社からすれば、給与は高いのに売上はイマイチで、人望もないから管理職にも推せないお荷物中年営業マンなのだ。俺からの辞意を受けた課長の顔に、一瞬ほっとした表情が浮かんだのを俺は覚えている。

「あと1ヶ月か……」

ふと大貫が呟くように言ったとき、タクシーは病院に到着した。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?