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【小説】 愛のギロチン 4

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同じアパートの住人とわかったことで多少なりとも安心した俺は、言われるまま老人に肩を貸し、立ち上がらせた。幼い頃、忙しい両親に代わり祖父母に世話してもらうことが多かった俺は、老人に対する抵抗感がない。

俺は言われるまま肩を貸し、立ち上がらせた。70代半ばくらいだろうか。いや、もしかしたら意外と若いのかもしれない。肩に回された腕は思いのほか筋肉質で、力強ささえ感じられる。だが、一緒に歩き始めると老人はうっと呻いた。思わず足を止める。

どうやら右足を痛めたようだ。見れば足首のあたりが大きく腫れている。

「……大丈夫ですか。病院行ったほうがいいんじゃないですか」

思わず声をかけると、「こんな時間に病院がやってるかよ、阿呆」と即座に返ってくる。言われてみればその通りなのだが、クチの悪い爺さんだ。善意で助けてくれている相手を阿呆呼ばわりとは。

とにかく俺と老人は一歩一歩、ゆっくりとアパートへと向かい、階段もなんとか登りきった。

二階の一番手前の扉の前まで来ると、「ここだ、俺んち」と老人は言う。玄関脇にはくたびれた表札がかかっており、そこにはヤクザじみた字体で「大貫」とある。


「悪かったな、あんちゃん。助かったよ」

そう言って笑う大貫老人を前に、心が現実に引き戻されていくのを感じる。ここ数分の白昼夢感は、見慣れた廊下を前にあっさり消え、むしろ、どうしてこんな余計な行動をしてしまったのかと自分を責めるような気持ちになる。

「……じゃ、私はこれで」

わたくし、などと、仕事の場面でもあまり使わない言い方をしたのは、大貫と自分の間に明確な線を引きたかったからなのだろうか。今後も顔を合わせる可能性のあるこの老人と、今まで通り「つきあいのない隣人」という関係性を続けるための。

俺は大貫の反応を待たずに振り返り、自分の部屋に向かって歩いていった。一秒でも早くこの場を離れたかった。カバンの中をあさって鍵を取り出し、慌ててノブに差し込んだとき、「おい、あんちゃん」と声がした。

「なんですか」

手を止め、ゆっくりと大貫の方を見る。

そこには、何か眩しそうに目を細め、唇を歪めるように笑う老人の顔。

「あんた、名前は?」

「……崎野です」

一瞬考えて、答えた。言わないのも変だし、表札は掲げていないが、階下の郵便受けには名前のプレートが貼り付けてあるのだ。

「仕事は何曜休みだ」

「は?」

思わず言った。いったい何なのだ、この爺さん。どうしてそんなことを聞く? いよいよ俺は危機感を覚えた。近所付き合いなどまっぴらだ。今後顔を合わせたとき、毎回世間話をしなければならないなんて苦痛でしかない。そうでなくても今日俺は気分が悪いのだ。頼むから放っておいてくれ。

「な、仕事してるんだろ? 休みはいつだ」

だが大貫は畳み掛けてくる。だいたい仕事の話は、いま一番したくない。転職先も決まっていないのに退職だけは決まっているのだ。だが本木とのやりとりで退職後の生活に強い不安を覚え始めていた俺は、思わず言った。

「土日休みですよ、普通に」

まるで”今はまだ”社会人なのだと言わんばかりの、誰に向けた言い訳なのかもわからぬ言い方に後悔が押し寄せる。ともあれ、別に嘘を言ったわけでもない。有給消化中ではあるが、ウチの会社は平日勤務で土日休みなのだ。

俺の返事を聞いて大貫老人はなぜかニヤリと笑った。

「てこたあ、明日は休みってことだ」

「……は?」

「じゃあな」

大貫はそれ以上は何も言わず、慣れた手付きで扉を開け、部屋の中に消えた。

つづく

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