被災地支援で宮城県に演奏に行った時の話

心の復興

東日本大震災が起こった時、私は九州に住んでいた。高校2年生で文化祭の準備をしていたと思う。当時のガラケーにはワンセグがついていたので、ニュースを見ながらどうやらすごいことが起こっている、程度の認識だった。九州に揺れはなく、津波警報は発令されていたが全く危機感がなかった。帰宅後にテレビで衝撃的な映像を見てようやくこれが現実の話なのだと理解はしたが、相変わらず実感が湧かなかった。

一年と少し後、私は音楽大学進学で上京した。大学デビュー丸出しのアッシュ頭の私は友人曰くかなり柄が悪かったらしく、話しかけるのを躊躇ったそうだ。躊躇いを乗り越えて打ち解けた友人たちとの最初の会話は、

「あの時どこで何をしてどうやって家に帰ったか」

だった。震災から数年間は震災の日の話をすることは割と一般的だったと思う。常磐線が止まって上野から松戸まで歩いたという話を、震源地に近い人は震災も身近に感じているのだと他人事のように聞いていた。相変わらず震災というものを自分なりに咀嚼するという段階ではなかった。

そんな私が東日本大震災というものの一部を目にしたのは大学2年の確か夏の終わり頃だった。私の大学が東北の大学と協業で被災地で子供のために演奏会を開くというプロジェクトをやっていて、事の成り行きで私はうちの大学側のリーダーになった。震災について何も知らない、全く被害を受けていない私は果たして人に寄り添った演奏ができるのかと不安になりながら準備した。

このプロジェクトのテーマは心の復興だった。震災から数年が経過し、ある程度の物的支援が確保できた今必要なのは心に対する支援ではないか、ということを大学から説明された。そう言われれば理解はできるが、具体的にどうすればいいかとなると暗中模索の状態だった。心の復興とはなんなのか、私の音楽で被災された人たちの心を復興させることなんてそもそも可能なのか。疑問は尽きなかった。

メンバーはたったの5人だったが(しかもそのうち3人はピアニストだったので手が空いている人には打楽器をやってもらった)、リハーサルを重ねてひとまず演奏会としての形は整った。とはいえ、もともと人見知りな私が、音大生ではない、普通の大学生(クラシック音楽という共通の話題がない人達)と初対面でコミュニケーションをとって演奏会を開くのはやはり無謀な気がした。

新幹線に乗って宮城までいき、乗り継いで協業する大学のキャンパスに着いた。私たちの大学とは比べ物にならない広大な敷地面積を誇るキャンパスを見て、私たちはすでに圧倒されていた。

キャンパスの一角にある建物の会議室で顔合わせと打ち合わせをした。初日は地域の子供達に対して演奏したり、一緒に体を使ったゲームをして遊ぶプログラムになっていた。演奏は基本的に私たちが行い、MCやアイスブレイク、アカペラなどは東北の大学生が担当した。

その日は仙台駅の近くのホテルに泊まった。東北に来ることも、牛タンを食べることも全てが初めての体験だった。

次の日、多少なりとも打ち解けた私たちは意気揚々と名取市に向かった。特別なことはできないにしても、出来るだけのことはしようと思っていた。
…思っていたのだが、夏の終わりの台風が日本列島を直撃し、会場周りの道路は冠水、私たちが仙台に帰ることすら危うい事態となった。

スタッフさんがお子さんを連れてきていたので、せっかくだからとその子たちのためだけに演奏した。不完全燃焼ではあったが、自然相手に人は無力であることを思い知らされた。

次の日も演奏し、前日の分まで思いっきり演奏した。その帰りに、東方の大学のスタッフさんが私たちを名取市の海岸沿い、閖上地区に連れて行ってくれた。完全な更地と化した住宅地、誰も気付かなかった小高い丘が津波の後あらわれたことなど、無慈悲な事実が私の目の前に広がっていた。そのほかにも、仙台空港でボランティアをしていた学生が怒鳴られたことなど、私が今まで知らなかったことを多く教えてもらった。それは数字やデータで現れるものとは異なり、実際に人の温度を纏った生きた情報だった。

たかだかそれだけで震災の全てを理解できることなどあり得ない。それでも自分から遥か遠くで起こった災害をほんの少しでも身近に感じるきっかけにはなった。

その次の年も、さらにその次の年も私はこのプロジェクトのリーダーとして被災地に赴いた。メンバーの入れ替わりはあったが、毎年会う生徒とは再会のたびに仲良くなれた。名取だけでなく石巻など少し離れたところでも演奏し、時には演奏会場でそのままお客さんと昼食をともにすることもあった。その時はご飯食べられて嬉しい!くらいにしか考えていなかったが、当時の私がいかにバカ大学生だったかが今になるとわかる。

大学4年の時、私にとって最後のプロジェクトの最終日、仙台から新幹線で東京に帰る私たちを何人かが送りに来てくれた。その時にもらった写真と寄せ書きは今も大切にとってある。なかなか集団に馴染めない私にとって、そういう自発的に書いてくれたものをもらうのはかなり稀なことだったこともあって本当に嬉しかった。その後私も就職したし、なかなか連絡を撮る機会もないがあの時のみんなは元気だろうか。

震災から10年が経過した。未だに行方不明の方もいる。大震災や3.11と言った言葉は残ったし、教訓もきっと生かされているだろう。しかし、もっと大事なことは、その出来事から学び続けることなのだ。自戒を込めて、懐かしく大切な思い出を記しておこうと思う。

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