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孤月のようなひと

Iはいつだって気まぐれだった。
深夜に電話をかけてきては、ぽつぽつと自分のことを語り始める。
まるで猫があたたかい場所にその身を横たえるときの、落ち着きを求めるような、どこか眠たげな声。その声で語るのは、ほとんどが自己憐憫か、繊細な感情か、絶望だった。

反対に私がIとの時間を求めるとき、Iはなかなかつれなかったりする。
ふりまわされるのが好きでしょうと言わんばかりに、Iは私を都合よく、上手に扱うのだ。

極端、完璧主義、ナルシスト、気まぐれ、柔軟、繊細。

Iを形容する言葉は枚挙にいとまがない。
ひとつの単語だけで言い表すことはできない。かといって単語をいくつも並べても、その人物像はぼやけたままだ。

これほどに奥ゆかしく、芳しいパーソナリティは他にない。
そこには人間の心というものが持つ秘密、世界がひた隠しにしている混沌があるような気がしていた。

それは言い過ぎかもしれない。けれど、これほどまでに私は、Iの魅力にとりつかれていることを認めなければならない。そして、私は一番にその魅力を知っているのではないかという自負を、持たざるを得ないのだ。

なぜなら私たちは、「友人」と言うには違和感のある、特別な関係性であることを、互いが認め合っているからだ。他のどの友人にも感じたことのない共鳴を、同じような感覚で受け取っているからだ。


夜の中で

Iといた時間を思い出すと、浮かんでくるのはほとんどが夜の風景だ。
出会ったきっかけは大学時代のバイト先。
互いの実家がとても近く、帰り道が同じだったことで距離が縮まった。

バイト終わりに近くの公園で何時間も話し込んだ日々を、第二の青春だと思っている。
それは高校生の頃のような、若さゆえの痛々しさというよりも、互いの傷を舐め合うような、寂しくてやるせないもの。
月の裏を夢見るエイリアンズのように、田舎の公園で逃避行をしていたのだと思う。

私たちはあのベンチで、恋愛や生活、過去や未来、永遠の夢、死ぬことや悲しみの種類について語った。もう話した内容の記憶はそぞろだが、寒空が強調する缶コーヒーのあたたかさ、こんなにも深く濃密な話ができる人をやっと見つけたという、興奮を帯びた喜びをはっきりと覚えている。

記憶の夜の中にいるIは、働いている時やダンスをしている姿からは想像がつかないほど、弱々しく頼りない小動物のように見えた。
抱え切れないほどの深刻さに、いつもいつも押し潰されそうだった。


他者の深淵

パートナーのこと、家族のこと、将来のこと、食い違う身体と心の性のこと。

Iは小さな体でそのすべてを抱えながら、堅牢な自意識の牙城を築き上げて、その中に閉じこもっているように見えた。

長引く夜のしじまに、Iはその一つひとつを話してくれたが、私は胸が痛くなるだけで、助けになるようなことは何一つ言えなかったと思う。

それは今も変わらない。
どうしたら楽になるのか?どうしたらよい方向へ導いてあげられるのか?
私は何回もそう考えた。そのことを、Iはちっとも知らないかもしれないが。

他人の私ができることは、ただ耳を傾けること。

自分は思っているよりも他人に影響を与えているんだと、奢っていた時期もあったけれど、それは大きな間違いだった。本人すらどうしようもなくてあふれてしまいそうなものを、他人が掬い取ってどこかへ還してあげようなど、思うこと自体が奢りなのだ。

私はIとの関係性の中で、人は心のとても深いところで人とつながることができるのだと知った。

一方で、自分と他者の間には、決して越えることのできない深淵があるということも。


無情さに保たれる世界

その深淵は、ある意味で絶望に近かった。どれだけ苦しんでいる人が目の前にいても、どれほど愛おしく思っていても、自分はその苦しみをほど遠い距離から望遠鏡で観察することしかできないのだ。言葉をかけ、そばにいることはできても、その苦しみの根本を消し去ることは、決してできないのだ。

他者と自分との間の溝は、相手のことを愛おしく思うほどに、深く無慈悲に感じられるものだ。人はその溝を覗き込んだ時に、寂しさを知るのかもしれない。

けれど私は、Iといることをやめなかったし、やめようとも思わなかった。

他者性は無情な一方で、自分という存在を照射してくれるものでもあるからだ。
私はIのためではなく、自分のためにIと一緒にいるのだと、無意識のうちに感じていたような気がする。

Iは歌がとても上手だ。ギターを爪弾きながら、その男でも女でもない、やわらかなくぐもった声で歌う歌が何よりも好きだ。その心地よさに身を委ねていると、すべてがどうでもよくなるような気がした。

それだけでも、Iと一緒にいる理由としては十分だった。

くだらないおしゃべりや、歌声や、無様な慰め合いに感じる心地よさ。役に立たないけれど、真に迫るような話題に潜り込んでいく過程。下手をすればこれ以上ない弱みを見せてしまいそうな、眠たい空気。私は、Iといる時の私が好きなのだ。

Iは本当に都合がよいので、自分が思い立った時にだけ連絡をよこしてくるし、会うなり自分の話ばかりする。
私は都合よく利用されているとも言えそうだが、それは私の方もそうだ。

私はIという他者の世界を借りて、自分の世界の一部を保っているのだから。



照らされませんように

社会人になって、Iの仕事をしている姿を見たり、他の友人を交えて会う機会が多くなった。そういう時のIは、かつての公園やコテージや狭い部屋で見てきたIとは全く違う様子で、私はいささか驚いた。

小動物のような弱々しさはどこへやら、機敏な動きでその場が求める作業を先回りして行い、クリエイティブ論を語り、頼もしい先輩風まで吹かせてみせる。人を喜ばせることが好きで、人の満足を自分の幸せに変換できる立派な社会人の姿がそこにあった。

今まで見てきたIはごくわずかな一面にすぎず、コミュニティの中ではこんなにも社会的だと知らずにいたことに、少し恥ずかしくもなった。

私が知るIの弱さや苦しみは、月で例えるなら地球からは決して見えない裏側の部分だったのだ。私はたぶん、ほとんどの人が見たことのない裏側を知っている一人なのかもしれない。そう思えることが、少しだけ誇らしいのはいじらしいだろうか?

勝手ながら、Iの特別な友人として、どうしても思ってしまう。
社会性とは裏腹の、独善的で、弱く、感傷的で、繊細なもろさを、ずっと持っていてくれればいいと。
照らされることのない裏側を、いつまでもそのまま隠していてほしいと。


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