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【 スダン 】 と呼ばれるレース その2

 私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。


ポワン・ド・スダン

ー 王立レース製作所設立の苦労

 スダンは16世紀以来、繊維産業とともにレース作りでも長い伝統の歴史がありました。

 オヴェール=ローデが著書で記述しているようにスダンのレース職人たちは自分たちの培ってきた技術と海外で既に名声を築いた従前のポワン・ド・スダンを放棄してまで、独占的な製作所を設立することに納得がいかなかったのでした。その販売量は王立レース製作所が設置される以前から年間40万リーヴルもの額に達して、公国を経済的に支えてその繁栄に大きく貢献していたのでした。

 また高級シーツ地の製造経営者のジャン・ガドー氏が、労働者を引き抜き不当な競争を行ったことも王立製作所に不利な状況でした。18世紀の半ばにはスダンはもはや上質なシーツの生産地としてしか認識されなくなったのです。

 そして住民の反対運動も起こりました。職工は自分たちの技法に習熟していたので新たに仕事を変えたり、自宅とは別の職場に出勤することを良しとしなかったのです。

 「 閣下のご命令に敬意と尊敬の念を抱く私にとってこれ以上の光栄はございません。この事実は、私がいかに熱心に王室御用のニードルレース製作所の設立に心を砕いてきたか私の熱意を言上するものであり、数日を費やして多くの困難を乗り越えてついに製作所の経営陣とポワン・ド・スダンの職工頭や女工頭とのあいだでの労使契約に成功し喜んでいるところであります 」

ニコール・オヴェール=ローデ著 『 LES MANUFACTURES DE DENTELLE DE CORBERT 』より

 1666年に副総督のラ・メナルディエール氏はコルベールに宛ててこのように手紙に認めました。

 この製作所の創設を担当した総督は国王の命令に従う一方で、自宅で従事する何百人もの職工が地元の商人と結んでいる雇用関係やレース産業で利潤を得ている地元の経済と社会状況を考慮しなければならなかったのです。

 国王の意志を押し付けて住民を不幸に陥れる必要があったのか悩み、総督は国王と地元住民との板挟みとなりました。

 その結果、スダンの王立製作所は3年で閉鎖を余儀なくされてしまったのです。

 そして両者の利害を一致させることを提言した地元の警部補ジャクソン氏がコルベールに接触して、このジャクソン氏の協力を得てレース会社の監督官たちは製作所を復活させたのでした。

 期限となった1675年以降、スダンのレース製作所への特権は更新されることはありませんでした。すでに1675年以前に、ジャン・ラボーシュ氏というスダンに住むレース商人が国王の衣装係にニードルレースを納入したことが確認されているのです。

 驚くべきことに、1670年代に王室にポワ ン・ド・スダンを供給したのはもはや王立製作所ではなかったのです。 

 そして度重なる戦禍によって現在のスダンには王立レース製作所の痕跡は残されていないのです。製作所がどこに所在したのか、そのために当時どの建物を借り上げていたのかはは残されている公文書からは推し量ることができないのです。

ー スダンのレースとは?

 現在ポワン・ド・スダンと呼ばれているレースは全て18世紀前期のニードルレースなのです。

クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館所蔵のポワン・ド・スダンの僧衣の裾飾り
( 18世紀前期 )

 「 では、スダンのレースとはどのようなものだったのでしょうか 」。

 17世紀のスダンのレースはどのようなものであったのかは資料が残されていないのではっきりとはわかりません。

 少なくとも王立レース製作所が設置された当時すでにヴェネツィア様式の技法を導入して発展させた《 スダンのレース 》が存在していたことは前回述べているとおりです。

 18世紀には王室から与えられた特権も消失して、《 ナントの勅令の廃止 》にともなう繊維業従事者の国外への大量流失により徐々にレース産業は衰退していったのです。

 そしてレース研究がはじまった19世紀以降に、18世紀前期のニードルレースの一部を【 ポワン・ド・スダン 】とカテゴライズしていったのでした。

 その特徴は、東洋的な植物や果物のデザインと一部のみに盛上げレリーフで装飾したボタンホール・ステッチの縁取りのないフラットなモチーフが見られることです。それに加えてグラウンドはドゥーブル・ピコ( 2つのピコット )つきの六角形のブリッド・ピコテであることも条件のようです。

【 モード 】と呼ばれるさまざまな装飾ステッチが多用されるのもスダン様式の特徴
ポワン・ド・スダンに多用された装飾ステッチ
【 モード 】と呼ばれる装飾ステッチが見られます
ほとんどのモチーフが縁取りのないフラットなものでごく一部のみ盛上げレリーフが見られます
スダン様式の特徴である盛上げレリーフが極端に少ないモチーフ
グラウンドにはブリッド・ピコテが見られます
ブリッド・ピコテ

 当時のニードルレースのモチーフの周囲はボタンホール・ステッチで縁取りされていたので、縁取りのないポワン・ド・スダンはちょっと異質に見えるのです。

製作地の問題

ー ポワン・ド・スダンの製作地

 ヴェネツィア・レースと同様に、スダンのレースも製作地を表しているのではないのです。

 ある特定のレースを指して【 スダン 】と呼んでいるに過ぎないのです。これは19世紀から20世紀にかけて便宜的にスダンと呼んだものを、慣例として現代までその名称が使われ続けているだけなのです。

 『 LACE A HISTORY 』の著者のサンティナ・リーヴィーはポワン・ド・スダンの候補地のひとつとして【 ブリュッセル 】とその周辺の地域を示唆しています。

 ポワン・ド・スダンを「 スダンで作れらたレース 」と説明されていることが散見されますが、それは不確かな情報なのです。スダンと名付けられたある一定の様式をもつニードルレースがあるのみで、スダンで確実に作られたと証明できないので私はこれらのレースを【 スダン様式 】と呼んでいます。

 そしてこれらのレースはスダンで作られたか作られていないかの問題に関わらず、とても美しいレースであるのは間違いないのです。


おわり

 

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