ヴェネツィア・レースの真実 その1
私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。
ヴェネツィアの繁栄
ー アドリア海の女王
アドリア海の女王と称されるヴェネツィアは7世紀末から18世紀末まで千年以上にわたり事実上の独立国家として存続しました。
10世紀末に東ローマ帝国皇帝から金印勅書を得て、帝国内での免税特権を得たことで交易により繁栄することになりました。
11世紀にはバルカン半島のダルマティアを征服してアドリア海の制海権を掌握すると、金印勅書により名目上も東ローマ帝国から独立を果たします。
オスマン帝国の支配が地中海に及び、15世紀の大航海時代に開拓されたインド航路などの影響で交易国家としてのヴェネツィアの最盛期は終わりを告げます。
これに対してヴェネツィアでは、16世紀以降国力を維持するためにガラスやレースなどの高級工芸品を産業化することで対処するようになります。
ー ヴェネツィアのレース作り
ヴェネツィアでレース作りがはじまった年代ははっきりとはわかっていません。しかし、その発祥が刺繍技法を基としていることから、バルカン半島のダルマティアなどを経由しイスラム圏で発達した刺繍技法が伝わったと考えられています。
16世紀の半ばには、ヴェネツィアでレース製作のための図案集が出版されました。これは【 パスマン 】と呼ばれる単純な技法のボビンレースのための図版が収録されたものです。その後、漸次的に刺繍・レースのための図案集がヨーロッパの諸都市で出版されていきます。
この出版物については私の過去の記事で触れていますので、よろしければご一読ください。
16世紀半ばごろのレース作りは組織的な専門のレース職人による産業というよりも、上流夫人の趣味としておこなわれた手芸的な意味合いの強いものでした。パスマンのほか、カットワーク技法を刺繍と併用するかたちで初期のニードルレースの基礎も生み出されました。
この刺繍技法のカットワークはイタリアでは【 プント・タリアート 】( punto tagliato ) と呼ばれています。これはカットステッチを意味しています。
このプント・タリアートはやがて大部分の基布を取り除くかたちの【 レティチェロ 】( Reticello )と呼ばれる技法に変化します。
プント・イン・アーリアの登場
ー 革新的技法の誕生
レティチェロの技法は刺繍の土台として常に基布を必要としました。基布をほとんど取り除いてしまうレティチェロは、当時決して安価ではなかった亜麻布を惜しげもなく切り捨てていくので非常に不経済でした。
この技法は刺繍の支点となるグリッドが必要であるため、基布にボタンホール・ステッチで刺繍した格子状の囲みにデザインが縛られることになったのです。
時代が進み、徐々にグリッドのなかに幾何学柄のモチーフ以外の人物像などを配した新たなデザインが生み出されていきました。
また16世紀のおわりごろには鋸歯状のスカラップで襟や袖口を飾ることが流行します。このグリッドに縛られることでスカラップ飾りはニードルレースでは製作が困難なので、本体のみをレティチェロで作って縁取りはより自由なデザインでの製作が可能なボビンレースのスカラップで装飾することがおこなわれました。
人々はグリッドに縛られない自由なデザインによるレース作りの模索をはじめました。こうして羊皮紙に描かれた図案と基布を使って、その基布を切り取らない【 プント・イン・アーリア 】( punto in aria )という技法が試行錯誤の上で考案されたのです。
プント・イン・アーリアは「 空中に刺繍をする 」という意味を持っていて、それまでのニードルレースにはない革新的な発想の技法だったのです。
プント・イン・アーリアの技法の恩恵でそれまでは制約を受け単純な幾何学柄が多かったデザインは、より自由な発想の複雑なものも可能となりました。
これによってニードルレースの技巧は17世紀に大きく発展していくことになりました。
その2につづく
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