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【 マリーヌ 】と呼ばれるレース

 私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。


マリーヌ、またはメヘレン

ー メヘレンの繁栄

 ベルギーのアントウェルペン州の南端部のメヘレンの街は、首都ブリュッセルと中世以来経済的に発展したアントウェルペンの中間に位置します。

 街は中世初期にはリエージュ司教領、その後はベルトー家による自治とブランバント公領からフランドル伯領へと変遷していきました。

 毛織物産業や塩取引で発展したこの街はやがて15世紀にはブルゴーニュ公領の一部となりました。

 16世紀にはハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と皇后であるブルゴーニュ公国の相続人マリーとのあいだに生まれたMarguerite d'Autricheマルグリット・ドートリッシュ( 1480-1530 )が、ネーデルラント総督として宮廷を置いたのもこのメヘレンの街でした。

ベルナールト・ファン・オルレイ( 1488-1541 )の描いた『 マルグリットの肖像 』 ( 1518年 )
ブル王室礼拝堂蔵

 フラマン語でメヘレンと呼ばれるこの街は、フランス語ではマリーヌといいます。ブルゴーニュ公領時代にはこのように呼ばれていました。

ー マリーヌ・レース ( メヘレン・レース )

 レース研究家のサンティナ・リーヴィーによると、マリーヌの名称が現れた最も古い文献の一つは17世紀前期を代表する陰謀家で高級娼婦のマリオン・ドロルムの回想録でした。その回想録のなかでフランス王妃アンヌ・ドートリッシュが《 マリーヌのフリゼット 》のヴェールを身に着けていたことが記されていることを指摘しています。

 また1657年に亡くなったド・ラ・モット元帥の財産目録のなかに《 パスマン・ド・マリーヌ 》で縁取られたフリルのついた服が含まれていたと記述しています。フランス国立図書館の所蔵されているこの目録にはほかにも《 ヴェネツィア、ジェノヴァそれにマリーヌのパスマンによる4対のカフス 》などの記録も見られます。

 17世紀のフランスではフランドルのボビンレースをパートレース( 非連続糸技法 )は《 アングルテール 》、連続糸技法のレースを《 マリーヌ 》と包括的に呼んで区別していたためマリーヌとは広範囲のレースを含んでいました。

 ウィリアム・バーナビーは、1701年作の喜劇『 ザ・レディース・ビジティング・デイ 』のなかでエリザベス・バリー扮するレディ・ラヴトーイの台詞として

 " I would be as much ashamed to have anything about me that I could not say was right French, right Mechlin, or right Indian; as I should be to wear False Diamonds or false teeth "
 「 正真正銘のフランス製、正真正銘のメヘレン、正真正銘のインド製と言えないものを身に着けるのは、偽もののダイヤモンドや義歯をつけるのと同じくらい恥ずかしいことです。」

William Burnaby (1673-1706)作 『 The Ladies Visiting Day 』( 1701年 ) より

のように言わせています。当時、マリーヌ( メヘレン )というのは高品質のボビンレースを意味していたのです。

 17世紀末から18世紀にかけてのメヘレンでは白く細い亜麻糸を製造する技術を確立したことで、薄くしなやかなモスリンのようの風合いのボビンレースを製作することを可能としました。

マリーヌ( メヘレン )・レースの真実

ー マリーヌ・レースとは

  マリーヌ・レースの大きな特徴のひとつが【 ギンプ 】と呼ばれる太番手の絹糸、もしくは亜麻糸でモチーフを縁取りされていることです。

モチーフを縁取る【 ギンプ 】と呼ばれる太番手のコード糸がメヘレンを見分けるポイントです

 また独自の【 メヘレン・メッシュ 】と呼ばれるグランドを使用しますが、これは18世紀半ば以降に顕著になります。

メヘレン・メッシュの編み目
ブリュッセルの《 ドロシェル 》と同じ組織で交差の目数が少ないのでより小さなメッシュとなる

 18世紀前期には【 ウイユ・ド・ペルドリ 】【 パートリッジ・アイ 】( フランス語・英語でそれぞれ《 ヤマウズラの眼 》という意味 )や、【 フォン・ド・ネージュ 】( フランス語で雪のグラウンドの意味 )【 スノウ・ボール 】と呼ばれる小さな玉模様で充填したグランドが好まれました。

 また鎖帷子を連想させる【 フォン・ダルミュール 】( フランス語で鎧のグラウンドの意味 ) や【 ファイブ・ホール 】のグラウンドが使用されることもありました。

 ファイヴホールは英語でローズ・グラウンド(Rose ground)やヴァージン・グラウンド(Virgin ground)、ローズ・ステッチ(Rose stitch)とも呼ばれ、フランス語ではポワン・ア・ラ・ヴィエルジュ(Point à la Vierge)、フォン・ド・マリアージュ(fond de Mariage)、フォン・ド・フランドル(fond de Flandres)などとも呼ばれています。英語と同様の「5つの穴」を意味するサンク・トルー(Cinq trous)としても知られています。ファイヴホールは市松格子状に均一に並ぶ正方形の四隅に4つのホール(穴)、中心に1つのホール(穴)があり、これが薔薇の花を象ったロザースのように見えることからローズ・ステッチの名前の由来となりました。

筆者のInstagramアカウント @lace_enchanted_sticthes より

ー 生産地の問題

 17世紀から18世紀にかけてメヘレンの糸の質の良さや細さから、メヘレンという名称が広範囲のフランドル製ボビンレースに対して広く使われるようになりました。

 『 HISTORY OF LACE 』の著者バリー・パリッサー夫人はマリーヌ・レースはMechlinメヘレン・Antwerpアントウェルペン・ Lierリール・Turnhoutトゥルンハウトで作られていたと記述しています。

 17世紀から18世紀にかけて活躍したフランス国王の製造部門の監察官ジャック・サヴァリ・デ・ブリュロンは編纂した『 世界商取引辞典 』のなかで、Ypresイーペル・Brugesブルージュ・Dunkirkダンケルク・Courtraiコルトレイクのボビンレースもマリーヌの名称でパリに流入していたことを指摘しています。

 18世紀の半ばのブリュッセルのレース商人の残した記録類によると、ブリュッセル周辺でもマリーヌ・レースは製作されていたことがわかります。

 マリーヌ・レースはメヘレン周辺のベギン会修道院( 半聖半俗の修道会のような女性の互助施設 )内で製作されていたとする説明をよく見かけますが、確かにべギン会でもマリーヌ・レースは製作されていました。しかし、ベギン会では下請けのようにそのほか様々な様式のレースも製作していたのです。

タテヨコ33cmもあるマリーヌ・レースのクラヴァット・エンド( ネクタイの端飾り )
従来連続糸技法のみと考えられていたメヘレンですがピエス・ラポルテでも製作されたことがわかります
( 18世紀の第2四半世紀 )
通常メヘレンでは連続糸技法による帯状のレースを複数接ぎ合わせることで大きな作品を作りました
このクラヴァット・エンドのように帯状の接ぎ合わせのない作品も各所の美術館などで見られます

 従来マリーヌ・レースは連続糸技法のため、ある程度の幅の制約があり帯状の細巾のパーツを複数本接ぎ合わせることで大きな作品を製作したと考えられてきました。

 しかし、このクラヴァット・エンド( ネクタイの端飾り )ではタテヨコ33cmの作品にもかかわらず帯状のパーツを使用した形跡がありません。

 ブリュッセル周辺ではピエス・ラポルテ( レースをいくつかのパートに分けて製作して、それぞれのパーツを最終的に繋ぎ合わせて組み立てる技法 )が発展していたのでブリュッセル周辺で製作されたマリーヌ・レースにも取り入れられたと考えられます。

ウイユ・ド・ペルドリとフォン・ド・ネージュのグラウンドのマリーヌ・レース
( 18世紀前期 )

 そのほかの多くのレース同様、マリーヌ( メヘレン )・レースも生産地がマリーヌ( メヘレン )という意味で名称が使われがちですが、実はギンプを用いたボビンレースを慣例的にメヘレンという名称で呼びならわしているだけなのです。

 【 マリーヌ( メヘレン )・レース 】は世の中で語られる《 メヘレンで作られたレース 》ではなく、実は《 メヘレン様式のレース 》なのです。

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