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あるブリュッセルのレース商の物語 その7

 私は東京と大阪で活動している、アンティークレースを研究する研究会『Accademia dei Merletti』を主宰し、「アンティークレース」についての考察や周知を行なっています。


前回までのあらすじ
 パリのカンカンポワ通りに《 ア・ラ・コルベイユ・ドール 》を開店したレース商人ジャン=バティスト2世ゴドフロワは、ブリュッセルに住む妹と連携して商売に勤しんでいくなかで失態の多い妹との諍いは絶え間なく続くのでした。

《 プティット・ムール 》

ー 兄妹の物語

 ジャン=バティスト2世の妹は幼いときに家族から《 プティット・ムール 》の愛称で呼ばれていました。彼女は常に体調管理を怠らず、健康のために密かに酢を飲んでいたようです。

 兄妹間の手紙からは詳しい症状はわからないが妹は健康状態が良好ではなかったようで、生まれ持った悲観的な考えは彼女の健康に大きな影響を与えていたようです。

 彼女は使用人を長らく雇っていなかったようで、シャペリエ通りで独り暮らしをしていた頃から10ソル半の代金で毎日の夕食を提供してくれていた《 タンチュリエ通りの「リオン・ルージュ」(赤い獅子亭)のピエール・ブーランジェ氏 》から請求される月々の出前の領収書は、彼女が簿記の能力以上に家事の能力すら持っていなかったことを証明しています。

 しかしこれらの食事に関わる領収書を見る限り、あらゆる商業的失敗を重ねていたにもかかわらず当時はまだゴドフロワ家は比較的に恵まれた状態であったようです。

 彼女は母親からある種の衣装への趣味を受け継いだようで、1774年には《 デザビエ・ド・ブロデ (刺繍した服)、1776年には《 アン・デザビエ・ド・ペルス 》(刺し子の服)を従兄弟のシャルル・ドーブレメために作り、彼からお礼としてワインを贈られたりもしました。

ピエトロ・ロターリのパステル画『 レース帽を冠った若い女性の肖像 』(1750-1756年)
ナショナル・ギャラリー蔵

 いつも不機嫌でありながらどこかで父親代わりを自認していた兄は、人生に試練を受けたどこかか弱い妹を常に慰めようとしていました。1772年には妹に宛てて「今月21日付の手紙を受け取ったよ。あなたの健康状態がとても心配だ。そのような近くにいて助け合うべき時に遠く離れていることの辛さは、私も同じように感じているよ。ぜひ医師から処方される薬で元気をもらい、一日も早い回復を心から願っている。」。

 またある時は妹が自分の忠告に従わなかったので怒ることもありました。「朝夕、決まった時間にオリーブオイルで一時間お腹を揉むと効果的と伝えた通りにするんだよ。母さんが新しい鍋にオランダジュニパーとパセリを煎じて、虫下しをしていたのを覚えている。」

 彼らの親愛なる母親は婦人病対策について常に念入りに思案していたようです。そしてゴドフロワ未亡人が子供たちに遺したのは、子牛の脂肪と砂糖飴で作る「ある肺病のためのシロップ」の秘密のレシピでした。

 1748年に若き日のプティット・ムールは、セルブロアー通りに店を構えるレース商人ジャン・デュ・ロンドーと華燭の典を挙げました。彼女の夫は悲しくも夭折し1751年6月18日ノートルダム・ド・ラ・シャペル教会に埋葬されたのでした。

 母親の商売相手であったヴァロン・ド・ヴィルヌーヴ氏ゴドフロワ未亡人に宛てた手紙には「お婿さんを亡くされたこと、そしてプティット・ムールが感じているであろう悲しみに対し私は感傷的になっています」とお悔やみの文章が認められていました。

ー ボッツォン家との係争

 子供もなく未亡人となったプティット・ムールはサブロンの古い家に住む母親のもとに身を寄せた。ゴドフロワ未亡人の他界後は有名な《 小便小僧 》付近のローゼンダールに居住する友人のボッツォン家に間借りして移り住んでいたことがわかります。

《マネケン・ピス(小便小僧)の泉の眺め》
ヤコブス・ハーレインによる銅版画『オランダの風景』より (1697年)

 彼女は1770年9月15日の日記にこう記している。「私はローゼンダールのボッツォンさんの邸宅に洗濯代、暖房用と灯り用の燃料費を含めて年間400フローリンで下宿していました」。1771年2月4日兄は彼女に宛てて手紙を認めました。

 「あなたがいつもボッツォン家の人々を喜ばせていることに安心しました。彼らに社交的で明るい態度を示すことで受け入れられ、彼らの家庭の仕来りに合わせるようにしなさい。」

18世紀のブリュッセルの街並み

 しかし、この幸せな両家の合意は長くは続きませんでした。諍いの原因のひとつはプティット・ムールが日記に書き残した「約束は守られず、暖も灯りもなく洗濯もできない」という言葉によって把握することができます。暖炉は煙突の循環が悪く煙を吐き出すので彼女は喘息に悩まされ、精神的に弱い彼女はうつ病にもなってしまったのです。

 兄は妹のためにボッツォン家との複雑な争議をパリで処理することを約束しました。しかし、訴訟は難航したようで、兄は「パリで検察官や弁護士の家に行くには何リュー(当時の距離の単位)も歩かなければならないし、彼らのところに出向くには正装もしなければならない。しかも彼らはほとんどいつも不在だ」と言い訳をするのでした。


つづく


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