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古典的作品論的ゲームデザインプロセス

この記事はBoard Game Design Advent Calendar 2021の3日目の記事として書かれました。

はじめまして。反社会人サークルです。
これまで『この過労死がすごい!』『顧客が本当に必要だったものゲーム』といったカードゲームや、マダミス『スパイス工場殺人事件』などを作りました。最新作は『理解のある彼くんになろう!』です。

最近『カードゲーム制作を支える技術』という本を書きました。この本の内容は、制作費やテストプレイ、LINE botなどです。要するに、ゲーム制作におけるゲームデザイン以外のことを書きました。代わりにこの記事で、私たちがどのようにゲームをデザインしているかを書こうと思います

なお反社会人サークルの構成員は3人いますが、この記事を書いているのは2tarです。他の構成員は異なる考えの可能性もあります。

メカニクスとフレーバー

ゲームの構成要素として、「メカニクス」と「フレーバー」という分け方をすることが多いのではないでしょうか。そして、ゲームを作るにあたって、メカニクスから作るかフレーバーから作るか、みたいな議論をされることが多いと思います。私たちの場合は、作っているゲームから想像される通り、メカニクスからは作っていません。

しかし、フレーバーから作っている、ともあまり言いたくありません。というか、フレーバーという言葉を使いたくない。まるで、メカニクスが本体でそれ以外はオマケだ、と言わんばかりの言葉です。この言葉を用いてしまうと、メカニクス至上主義者の思惑にまんまとのせられてしまっているも同然です。私たちはその手にはのらない!

そこで、「システム」と「テーマ」。もしくは『中ヒットに導くゲームデザイン』にならって「フォーマル要素」と「ドラマチック要素」という言葉を使います。ドラマチック要素にも一部メカニクスと思しき部分も含まれていますが、概ねフレーバーと考えてよいのではないでしょうか。

では、私たちは、テーマもしくはドラマチック要素から作っている、ということでしょうか。それはそうです。しかしなんだか違和感があります。

私たちのゲームデザインモデル

広い意味ではテーマやドラマチック要素と言えるのかもしれませんが、私たちがイメージしているのは次のようなモデルです。

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まず特権的なイデアとして作者の意図があり、それをルールによって表現しているということです。作者の意図というと何だか国語の問題のようです。ゲームを作っているというよりは、小説や映画を作っているのに近いのかもしれません。

もちろん他の多くのゲームデザイナーにも作者の意図は明確にあると思います。とにかく面白いゲームを作りたいとか、もっと具体的には、何らかのメカニクスとメカニクスを組み合わせたい、こういう場を作りたい、ある感情を呼び起こしたい、とかそういうことです。ちなみにここで例に挙げた3つは、MDAフレームワークにおけるMechanics、Dynamics、Aestheticsをそれぞれ指しています。

※さらに上位の意図として、金を儲けたいとか、承認欲求を得たい、といったものもあるかと思われます。しかしここでは、あくまでもプレイヤーへの作用に絞った意図を考えます。プレイヤーにメッセージを伝えたい、啓蒙したい、共感してもらいたい、こういう行動をさせたい、こういう体験をさせたい、といったことです。
プレイヤーへの作用のない、鑑賞のみを目的としたルールもあり得ますが、話がややこしくなるので、あくまでもここでは意図もルールも、プレイヤーへの作用を目的とすることとします。

その一方で、作者の意図が語られることはあまり多くありません。作者自身が語ることはあるとしても、特にアナログゲームの場合は、他者が作者の意図を分析することは少ないように思います。意図を分析するとしても、上であげた作者の意図の例のうち、「何らかのメカニクスとメカニクスを組み合わせたい」のような話が多いのではないでしょうか。よく考えてみると、これは意図ではなくルールの話です。作者の本当の意図が別にあるはずです。

このような意図が語られづらい要因として、結局のところ、プレイヤーに面白い体験をさせることに意図が収斂されてしまうから、という理由があるのではないでしょうか。プレイヤーに面白い体験をさせたいから面白いゲームを作る。プレイヤーはゲームを楽しみたいからゲームを遊ぶ。チクセントミハイが自己目的的とか言っているやつです。ちなみに『ユーロゲーム』では、ボードゲーマーがゲームを遊ぶ目的は詳細に分析されていましたが、ゲームデザイナーがなぜゲームを作るのかはほとんど顧みられていませんでした。

作者の意図の具体例

それでは私たちのこれまで作ってきたゲームの具体的な意図は何でしょうか。いくつか具体例を紹介します。

この過労死がすごい!

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もともと私たちは労働に関する同人誌を作っていました。そこでは、主に現代のホワイトカラーの労働における馬鹿馬鹿しさを延々と書いていたのですが、それをゲームでも表現してみたのがこれです。

自主的なサービス残業、残業時間を減らせという上司、仕事ではないのに会社に奪われる時間といったことをルールで表現しており、それらの馬鹿馬鹿しさを共感・体験してもらうのが意図です。

顧客が本当に必要だったものゲーム

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これはIT業界でよく話題になる「ブランコの木」という漫画をゲーム化したものです。それは、顧客や営業、プログラマーなどによって、開発するシステムのアウトプットイメージが異なることを表現しています。

このゲームでも基本的にはその通りなのですが、それに加えて、結果としてわけのわからない成果物ができあがる、開発が進むにつれてさまざまなステークホルダーが次々と口出しをしてくる、といったことも表現しています。

特徴量モンスター

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これは機械学習を学ぶシリアスゲームですから意図は明確です。一般的にシリアスゲームは、作者の意図と、プレイヤーの意図が一致しています。

しかしそれだけではあまり面白い表現にはなりません。そこで、機械学習のモデルを破綻させる要素を、ゲームバランスを破綻させるカードとして表現するなど、メタ的な表現も加えています。

理解のある彼くんになろう!

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実在のメンヘラ女性の恋人になり、理解を深めていく、という内容です。タイトルに意図が書かれており、つまり理解のある彼くんを世の中に増やすことが意図です。また、私小説的というか、個人に焦点を当てたゲームは、デジタルのインディーゲームではたまに見られますが、アナログゲームでは知らないので作ってみました。

具体的なルールの中では、恋人になるとしたらいつが最適なのか? そもそも恋人になりたいのか? といったことを考えてもらうことも意図しています。なぜなら現実にそういうものだからです。


以上のように、私たちは、何らかの概念や仕組みをゲームで表現することに重きをおいています

これは、ユーロゲームに対して、テーマに重きを置くアメリカ流のゲームの作り方ということかもしれません。ただ、ウォーゲームのようにシミュレーションを精緻に行いたいわけではありません。それよりも、メッセージ性や啓蒙の色合いが強いのではないかと思います。

次に私たちのゲームデザインのプロセスを説明しますが、ここでもその色合いの強さが表れているはずです。

私たちのゲームデザインプロセス

これらのゲームをどのようなプロセスで作っていたのかを説明します。

主に次の3つのステップがあります。

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(1)モデル化

最初のモデル化の段階では、私たちが表現したい概念や仕組みを、いかにゲームのルールに落とし込むかを考えます。ゲームのルールはさまざまな要素があるので、核となる表現に加えて、サブ的な表現もルールとして加えていきます。

例えば『理解のある彼くんになろう!』であれば、理解を拡大再生産するというのが核となる表現であり、サブ的な表現としては、彼氏が次々と変わっていく、彼氏になると彼氏の潜在的なポテンシャルというかダメな部分(DV、無職など)が顕わになる、といった要素が対応します。

ゲームのルールが複雑にならない範囲で、表現の密度が高まると、よくできた!という感じがします。表現の密度が高いというのはどういうことでしょうか。ゲームとして成立させようとすると、どうしても都合上含めなければならないルールが発生します(手番順、カードのシャッフルなど)。それらに対しても、表現したい概念や仕組みを対応させることができれば、密度が高まったと考えます。

もちろんルールが複雑になってダメなわけではないのですが、私たちのようなニッチなテーマで、重たいゲームを作ってしまうと、誰も遊んでくれないのではないかと危惧しています。したがって、必然的に軽いルールの中で、表現の密度を高めていく方向でゲームを作ることになります。

また、このプロセスでは、表現したい概念や仕組みに対応するメカニクスを見つけるだけではなく、それらをつなぐ適切な言葉を見つけることも重要になります。各種パラメーターやアクションを何と呼ぶか、といったことです。ルールを理解しやすく、概念が伝わりやすい言葉を当てはめることができれば勝ちです。

『理解のある彼くんになろう!』では、理解を得るカードを「エクスペリエンスカード」と呼んでいますが、ここに至るまでにも多数の案がありました。例えば「チャームポイントカード」という案があり、メンヘラ女性のネガティブなチャームポイントを受け入れるというのは、とても腑に落ちます。しかし、どうしてもメンヘラ女性を馬鹿にしている感はぬぐえず、そのような読解をされたいわけではないので、今の案に落ち着きました。

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(2)逸脱

次のステップは逸脱です。概念や仕組みをそのままルールに落とし込むことができても、面白くなるかはわかりません。概念や仕組み自体があらかじめ面白ければ、そのままルールとしても面白くなるでしょうし、なるべくそのような概念や仕組みを表現しようとしているのですが、仮にそこまで面白くなかったとしても、加工することでさらに面白くできるのではないか、と考える段階です。漫画などであれば、誇張表現といった方がわかりやすいでしょうか。

例えば『平成GO』という、平成の出来事を並べていくゲームを過去に作りました。このゲームは、私たちの考える平成の主要な出来事や、ありそうでなかったフェイクニュースを並べていくという、表現としては非常にわかりやすいものです。しかしそれだけでは普通です。そこで、平成は平成31年で終わるとは限らない、という要素を付け加えました。平成はまだ続いているのだ、とか、今の天皇は偽物だ、というメッセージがあるわけではなく、面白いからそうしているのです。

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ゲームの場合、最初は意図していなかったものの、パラメーターがインフレしたり、おかしなタイル配置になったりします。そのように勝手に逸脱するケースも多くあります。もしもそれらが面白いものであれば、残しておきます。

(3)調整

最後は調整です。これはあらゆるゲームデザインで発生するプロセスではないでしょうか。ゲームバランスやUIの調整などを行います。

おそらく私たちがここで行っていることは、他のゲームデザイナーの方が書いている以上の独自性はないと思われます。そして入稿締め切りが来たら終了します。

意図/表現/読解モデルのメリット

ゲームデザインにおいて、このようなモデルとプロセスを採用することで、どのようなメリットがあるのでしょうか。

私たちは、ゲームを作るモチベーションを高めやすいことがメリットだと考えています。

例えば、「世の中にはこんなに面白いゲームがたくさんあり、今も作られているのに、自分が作る必要はないんじゃないか?」と疑問を抱くゲームデザイナーがいます。

確かに私もそう思わなくもない……ですが、それは、市場にたくさんのゲームがあるから、私たちのゲームが遊ばれないのではないか、という可処分時間の取り合いへの懸念です。面白いゲームがたくさんあるからというわけではありません。

面白さだけを優先してしまうと、さらに面白いゲームの存在によって、創作意欲を失ってしまう危険が高い。もちろんボードゲーマーは複数のゲームで遊んでおり、そのような一次元の評価をしているわけではないと思いますが、傾向として、面白さを評価の主軸にすることが多いのではないでしょうか。

しかし私たちには「作者の意図」があり、それは今のところ差別化はできています。したがって、私たちのゲームは私たちだからこそ作られるものであり、世の中に存在する価値があるはずだ、と思い込むことができるのです。

そして、ルールはあくまでも意図を遂行するための表現の手段であり、従属的な要素です。もちろんゲームは面白いに越したことはありません。だから私たちもなるべく面白いゲームを作ろうとしています。しかしそれは、面白くないと遊ばれないため、結果として意図が遂行できないからであり、意図が絶対的に優越するのです。

※ゲームが遊ばれなくても、ゲームの存在そのものに価値があるという立場もあり得ます。むしろ私個人はプレイヤーとしてはそうです。そのような人間は際限なくゲームを積み続けます。

意図/表現/読解モデルのデメリット

デメリットもあります。

このような作り方では、作者の意図以上のものが生まれることは稀だと思われます。表現したい概念や仕組みは、現実世界に既に存在するものである可能性が高い。その一方で、ゲームメカニクスにはそれを超える可能性があります。

ワーカープレイスメントやエリアマジョリティ、タイル配置といったメカニクスは、かなり現実に近いメカニクスなので、このようなモデルと相性が良い。多くのデジタルゲームもそうです。一方で、マンカラなどの古典的なアブストラクトゲームや、メカニクスの差別化を繰り返しているトリックテイキングゲームがこのような作り方で生まれるとは思いません。

デジタルゲームでも、一体どうしたらこのようなゲームを思い付くのか?と思うことがあります。例えば『サガ スカーレット グレイス』というゲームに「連撃」という仕組みがあります。

このゲームの戦闘は、いわゆるターン性のコマンドバトルです。各キャラクターが毎ターン何らかの行動を順番に行います。その順番に大きな意味があるのです。戦闘中はタイムラインとして順番が表示されているのですが、味方のキャラクターに挟まれた敵のキャラクター(味方⇒敵⇒味方という順番)が戦闘不能になった場合、敵が消滅し味方のタイムラインがつながったことにより、味方のキャラクターは追加で攻撃ができます。これが連撃です。順番で挟んでいた状態がつながるとはいったい? 落ちものパズル的な発想なのでしょうけど、どういうメタファーなのかまったくわからないので、まったく思い付く気がしません。

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『サガ スカーレット グレイス』の戦略的バトルがやっぱりおもしろい! レビューで詳解【特集第3回】-PlayStation.Blog より引用

このように、概念や仕組みを表現するだけでは限界があり、イノベーティブなメカニクスのゲームを作るには、意識的にメカニクス起点のデザインプロセスを混ぜた方がよいのだと思います。これは今後の課題です。

ゲームへのテクスト論的な読み

ここまで、作者の視点を中心に文章を書いてきました。一方で、ゲームを遊ぶプレイヤーの態度についても考えてみたいと思います。冒頭のモデルの「プレイヤーによる読解」という部分です。

この記事のタイトルに「古典的作品論」と書きました。これは小説などの文章を読み解く際に、作者の意図を読み取ろうとする態度を指しています。そうではなく、作者の意図は気にせず文章を自由に読み解こうとすのが「テクスト論」です。ゲームに置き換えると、「文章」は「ルール」ということになります。

前述したように、アナログゲームで作者の意図が語られることは多くありません。つまりボードゲーマーは、テクスト論が登場するまでもなく、テクスト論的な態度で作品に向き合っています。ルールを自律的なものとして評価し、そこで用いられるメカニクスを分析する。その一方で作者名は作品の傾向を示すラベルでしかない(箱に大きく書かれているのに!)。

そもそもアナログゲームの場合、プレイヤーが勝手にルールを変更して遊ぶことも多々あるのではないでしょうか。文章を自由に解釈する以上に、自由な態度を取っています。あらかじめポストモダンであり、「作者の死」は明らかであり、無限の読みが開かれている!

それはそれで素晴らしいことですが、さすがにメカニクスに偏りすぎなのではないか?という疑問を持っています。そこで、古典的なモデルでゲームを認識し、ゲームデザインを行っている私たちは、このような文章を書いているというわけです。

ゲームへの古典的作品論的な読み

では古典的なモデルに基づき、作者の意図の読解を行うことは、現代のボードゲーマーにとって何が良いのでしょうか

ひとつは批評の幅が広がるということです。文芸批評のような手つきでアナログゲームと関わることで、アナログゲームの価値を高めることができるはずです。

もう一つはプレイヤーの幅が広がるということです。テクスト論は主体的に文章やルール(いわゆるエクリチュール)と関わっていきます。一方で古典的な作品論は作者が主体であり神です。世の中には神を必要としている人がいます。神なき世界において、プレイヤーが主体としてルールと関わることに疲れてしまう。そのような人は、これまでアナログゲームを遠ざけていたかもしれません。しかし、プレイヤーが主体にならなくても良いゲームや(デジタルゲームには多いと思われます)、そのような遊びの場が登場することで、プレイヤーの幅が広がるはずです。

極端な例では、マーダーミステリーのモブキャラ、イマーシブシアターの鑑賞者などは、旧来的なボードゲーマーの関わり方からはかなり遠いのではないでしょうか。

このように、既に領域は混在していますが、さらに包摂できるはず。だから私たちは「作者の死」なないゲームを作り、そして作者をリビングデッドとして蘇らせて遊んでいるのです。


ヘッダー画像はWikipedia(Le Bruissement de la langue : Essais critiques IV)より引用

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