「この世の真理にたどり着くための二次創作に過ぎない」
初めまして。カロです。
私は元来から自分特有のあるあるばかり持っています。
例えば、水風呂に入るとこの世の言葉で表せない気持ちになるとか、好意を寄せられるとなぜか不快になるとか、いい年なのにどんな嘘もつきたくないだとか、そういうやつです。
自分にとってのあるあるって通じるのかな?と常に思っています。
でも、それが積み重なって私が出来ていますし、自分から逃げても追ってくるだけなので、やっぱり私を紹介するには、理解されがたい部分を出すことが、個体差という理解可能性につながるのだとも思います。
そんなわけで、最近、私は仏教についてよく考えます。
例えば、仏像って謎なんです。私の偏見だと、像に手を合わせるだけで幸福になっているなら、経典や説法というのは不要じゃないかと。
何が本当に必要なのかわかりづらくないですか?
調べるとこんな記事が出てきました。
要約すると、初期仏教から現在の仏教に至るまでにある種の方便(ここでは解脱に至るところから最初の段階として布教する目的に達するための手段)として仏像が存在する、という解説でした。
確かに。仏陀も方便として寓意を含ませたことをやりがちです。
真理にたどり着くためなら何をやってもいいかもしれない。
・・・この調子だと何でも方便になってしまう。
ここで思いました。この真理と方便の違いは、一次創作と二次創作の違いと似ているのではないかと。
例えば幼児化したり、性転換したり、擬人化/擬獣化したり、箱化したりと、それ一次創作の誘因につながるか?というジャンルありますよね。
でも、本人って一次創作という真理を知っていて、そこから得た栄養を創作活動に充てているわけじゃないですか。そこに他意はないわけです。
また、一次創作から二次創作に入る人もいれば、二次創作から一次創作に入る人もいるわけで、二次創作というのは真理に至るまでの過程として有用なわけです。
しかし、解釈を違えたように見える二次創作がいたとき、起こるのは分派か宗教戦争なわけです。
タグで草分けするか、レスバを大抵してますね。本当は真理にたどり着けるならどっちだっていいのに・・・。入り口は広い方が良いのに・・・。
けれども、
何が本当に必要なのかわかりづらくないですか?
この解釈一致のために戦争をしなければならない。
人間はあまりに惨い生き物なのです・・・。
以上をもって自己紹介とします。
何を書いたらいいのかよく分かってません。カロでした。
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