読虫

目が開く。首だけを動かし、辺りを見る。すぐ横に一冊の本が開いたまま、少し遠くのベッドサイドテーブルに本が数冊積まれたまま。本を読んだまま眠りに入ったことを自覚して、やっと体を起こす。顔を洗おうと洗面台に向かうところまでは常だった。鏡を見たところから異常だった。刹那、自分が虫に見えた。地面を這うはずの虫が立ってこちらを見ているような姿だった。網膜に張り付いて離れなくなる前に頭を切り替えようとする。だんだん音が大きくなる。はじめ、何の音かわからなかったが蛇口から流れる水の音だった。男は音が遮断されるほどの集中力にげんなりして、日常に帰っていった。

朝の出来事を除けば、いつも通り。本を読むか、書くか、それ以外は生命維持のための活動。22時になり、とあるバーに向かう。そのバーは完全予約制で、店主と客の一対一。お店が狭いというわけではなく、店主の方針で一日一人までしか相手をしないらしい。
「こんばんは。」
「いらっしゃい。」
一言ずつ交わし、カウンターに腰掛ける。
「ウィスキーのロックをお願いします。」
いつもは眼を閉じて音を聞いているが、今朝の傷がまだ瞼に残っている気がしてやめた。自分は氷を砕く音、シャリシャリとあっけない音やお酒を注ぐ、血液の流れるような音が存外好きだったようだ。今日は視覚情報を得る時間ができたので、店主を観察してみると髪を結っており、大きな白いリボンの先が髪の先端と同じところに位置取っている。お酒を一口喉に流して、話始める。
「今日はカフカの『判決』。父が言い放つ言葉で、商人は友人を失うわけです。そして、商人は錯乱するわけですが、その錯乱は読者にも伝わってきます。違った形ではあるけれども、確かに読み手は不安感を覚え、混乱していく。その過程を生み出すのがカフカの好きな部分です。商人は最後には自殺をするわけですが、愛を口に出して死ぬのです。この不条理の顕現も良い、さらりと粘性の高い感情を描き出すのは素晴らしいと思います。手法と表現の乖離加減が堪らない。」
話を区切るために、お酒を体に足す。こちらが話している間、店主は一切言葉を発さず相槌すらも打たない。しかし、話は聞いている、そう思えている。恐らく、彼女の眼を見るたび目が合うためだろう。常にこちらを見続けている。
「今日はフランツ・カフカなのね。悲壮感漂うカフカの影響かしら、今日は少し顔色が悪いわよ。また連絡するから。」
彼女はそう言い残し、空いたグラスを下げ始めた。
僕はこのお店の予約を取ったことがない。いつも透さん自身が勝手に予約を済ませ、来てくれる?とだけ。この機会は気に入っているが、奇妙な話である。怪訝な面持ちで僕は帰路についた。

目が覚める。窓から眩しい光が指している。体を起こして辺りを見ると、部屋が綺麗に感じた。刹那、鋭利なものに自然に触れてしまった感覚に陥る。手も足をどうかしてない。だが、気色が悪い。元に戻さなくては、そう思って洗面台へ急く。鏡を見ると、虫がいた、あの虫が。
頭が醒める。枕元には本が置いてあり、ベッドサイドテーブルには本が積まれていた。気持ちが悪い。自分もベッドも、跡が楕円を形成するほど汗に支配されている。仕方なく、シーツと服を洗濯機にかけてシャワーを浴びる。寒暖差でお風呂場は湯気で満たされ、鏡がよく見えない。手の関節や腰など普段は明瞭な体の境界が曖昧になってしまったように感じる。ピピピ!と洗濯の終わりを告げる音を聞いたので、その場を去った。一息ついて、今日は透さんとの約束の日だと気づく。幸い、まだ時間には余裕があるのでコーヒーをお供に読書をする。この時間だけは落ち着けた。頭を休ませるための時間に似ている。何も考えることなく秒針だけが進む、虚無の時間。

22時。時間通りに店に入ると、透さんと視線が重なった。
「いらっしゃい。」
「こんばんは。今日はお酒は遠慮しておきますね。」
「そう。でも丁度良いかもしれないわ。今日は私の話を聞いてほしいの。」
「君らしくいこうかな。」そう言って、いたずらっぽく笑った。
「今日は〝君の話〟。人が毒虫になってしまう話。君も感じているのでしょう?ここ最近の体調が優れなかったのはそのせいよ。自分が地を這う虫に見える。身も蓋もない言い方をすれば、正に蜚蠊だったはず。でもただの蜚蠊ではない、毒を持ったやつよ。」
話し始めから憔悴しきっていた僕は呻き声の混じった言葉を発する。
「確かに虫に見えてました。でも毒に関してはさっぱりです。」
「そう。あなたには毒について気付けない。毒はね、視点を転換させれば薬になる。薬としての効能がある限り、それが毒だなんて思わないし、思えない。つまりはそういうことよ。」
彼女は牛歩のごとく、ブーツと木の床が鳴らす一音一音を大事にするように、カウンタから歩いてきた。そちらに目も体も奪われる。
「今まで、君の話を聞いてきたわ。そのどれも、楽しませてもらったけど君の話であって、君の話でなかった。君は読んだ本の思想を断続的に取り入れて、それについての評価を話していただけに過ぎない。それらの思想を毒と知らずにね。生来、毒を持たないものは毒で死ぬ。君は生き続けながら、絶えず死に続けている。自壊させる毒をもっている毒虫。」
「でも、そんな貴方を私は好きよ。愛している。」彼女はそう言って、シニカルに笑った。
僕は、彼女から視線を外した、外さざるを得なかった。項垂れた先には大きな楕円の影が揺らいでいた。


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