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映画『PERFECT DAYS』を観た

※ネタバレを含むので、ご鑑賞前の方はお気を付けください

 起承転結のない(あるいは隠されている)話が好きだ。伏線回収も壮大な音楽もラブストーリーもない。ただそこにあるものをトレーシングペーパーで写し取ったような映画や小説が好きだ。『PERFECT DAYS』もそんな映画だった。

東京・渋⾕でトイレ清掃員として働く平⼭(役所広司)は、静かに淡々とした⽇々を⽣きていた。同じ時間に⽬覚め、同じように⽀度をし、同じように働いた。その毎⽇は同じことの繰り返しに⾒えるかもしれないが、同じ⽇は1⽇としてなく、男は毎⽇を新しい⽇として⽣きていた。その⽣き⽅は美しくすらあった。男は⽊々を愛していた。⽊々がつくる⽊漏れ⽇に⽬を細めた。そんな男の⽇々に思いがけない出来事がおきる。それが男の過去を⼩さく揺らした。

公式HPよりあらすじを抜粋 

 まずこのあらすじに惹かれ、これに加えてカンヌ国際映画祭で役所広司が主演男優賞を受賞したということしか事前知識がない状態で映画を観た。第一印象としては「平山(役所広司)が、喋らない」だった。家にいる時も、仕事をしている時も、酒を飲んでいる時も。フィルムカメラを現像するシーンなんて「ああ」と「うん」ですべての意思を店員に伝えていた。喋らない代わりに表情や仕草、行動に映像は集約される。平山の生活は洗練されていて無駄がなかった。朝起きるとまず布団を正確に畳み、昨日眠る前に読んでいた本を読み直す。シェーバーで髭を剃り、草木に水をやる。玄関に並んだガラケー、フィルムカメラ、車のキー、小銭をひとつずつ所定のポケットに入れるシーンは「この男はもう何十年も同じことをしているのかもしれない」と言葉一つなくとも伝えるには十分だった。家の前にある自動販売機でコーヒーを買い、カセットテープを差し込み、同じ場所で昼食をとる。銭湯の前に自転車を停めた瞬間にシャッターが開き、開ききらないうちにもう体は滑り込まれている。映画の序盤では体に染みついたひとつひとつの習慣がおそろしいほど正確にこなされていた。

脚本に書かれていない
この男の353日を演技する。

公式HPより

 平山には美しいルーティンがある。そしてそれが崩れた時に物語は産声を上げる。フィクションの鉄則。法律は犯され、平和は終わり、大切なものは失われる。純文学でいうところの「破れ目」が物語の分岐点になる。そこに監督のヴィム・ヴェンダーズがインタビューで言及していた。

ルーティーン以外の出来事が起こる、外からやってくる何かがある、というささやかなイメージがいるからです。

 序盤、やりすぎではないかというくらい丁寧に平山という男の生活様式が描写されたとき、それは壊されるために描かれていると思った。それがどう壊されていくのか。なぜ壊すのか。そこが一つ物語だった。小さな破れ目はいくつかあったけれど大きく挙げられることとして①職場の同僚②姪っ子ニコ③行きつけの店のママの恋慕、の三つがあるように感じた。職場の同僚であるタカシ(柄本時生)に車や金を貸してしまう場面や、自分の妹から家出してきた姪が家に転がり込んでくる場面や、行きつけの店のママが男の胸に頬を寄せているのを見てしまう場面など、それら全てが自身の美しいルーティンにとって破れ目だった。もしそれらが娯楽映画内で機能していたとするなら、その破れ目を起点とし物語は加速度的に面白さを増す。ただこの映画はそうではない。結局最後は一見パッとしない彼の美しい生活に収斂していくのだ。よろめいてもまた回りだす駒のように。破れ目は彼の過去や性格構造を見せるためのギミックとして機能する。わたしは最初、ルーティンが侵された平山は怒ると思った。実際に怒りを露にする場面も一度だけあったが、彼はそのほとんどで怒らなかった。むしろその変化を楽しんでいるようにも思えた。雨の中レインコートを羽織り自転車で浅草の地下に酒を飲みに行く場面がある。彼にとって変化とはただの雨に過ぎないのだと思った。「平山」という男のイメージの元は実在する僧侶だとヴェンダーズはインタビュー内で語っていた。まさに僧侶だった。僧侶映画。破れ目という雨。

 一番美しかったシーンはやはり「影踏み」だろうと思う。居酒屋のママ(石川さゆり)が友山(三浦友和)といる場面を目撃してしまい、平山は慌てて店を後にする。コンビニでハイボールを三缶とピースとライターを買う。川面で火を点けている時に友山が「一本くれませんか」と近寄る。少し話す中で友山が癌であるとわかる。「色々なことがわからないまま死んでいく」と零し、影が重なると濃くなるんですかね、と何ともないように口にする。それを聞いた平山が「今試してみましょう」と街灯の強くあたる場所に友山を連れだした。役所広司と三浦友和という二人の大俳優がへんてこりんな恰好で影を一生懸命合わせようとしているのは見ていてとても愉快だった。「(影が重なっても)変わらないんじゃないですか」という友山の言葉に対して「変わらないことなんてない」と何回か平山は口にする。それは石川さゆり扮するママが「どうして変わらないままじゃいられないんだろうね」と半ば文脈もなく零していた言葉へのアンサーなんじゃないかと思った。ルーティンに忠実で、変わらない日々をむしろ保っているように思える平山がそう言うことに意味があるのだと思った。

 最後、エンドロールまで見切った観客へのご褒美のように「木漏れ日」という言葉の解説が画面に映し出される。木漏れ日という単語はよく「翻訳できない言葉」として取り沙汰される。そういう取り扱われ方を見る度に少し辟易とした気分になることもあるが、この映画はただ事実として木漏れ日の言葉の意味を伝え、何も足さず何も引かずすべてを受け手側に委ねている心地がしてそれも良かった。木の葉の間から差す日の光が一瞬として同じ形がないように、変わらないことなんてひとつもない。それは平山が送っている美しいルーティン・ワークの生活(=一見変化に寛容ではない)に職場の同僚や姪といった闖入者が一時の変化の兆しをもたらす、という構図にもリンクしているように感じた。

 映画内で機能しているものとしてフィルムカメラ、カセットテープ、コインランドリー……とレトロブームの渦中にいるような若者には刺さる文化が列挙されているが、この映画の中心にいるのが年配の男性というところにこの映画の化学反応があると思った。これが売り出し中の若手俳優であれば悲惨なことになっていたと思う。この映画が役所広司を軸とした僧侶映画だったからここまで美しく木漏れ日の光は乱反射した。起承転結がない。説明のないシーンもあるため平坦で退屈だと思う人もいるだろう。だからおすすめはしない。「見てね!」なんで気軽に言わない。元来おすすめという行為がどうも押しつけがましく思えて上手にできない性格だった。他人の感想に責任を持ちたくないという卑怯な性分というのもある。映画ひとつに関してこんな長い感想を書いたのは初めてだった。なんでだろう。この映画が良かったというのが勿論だけれど、大学の時みたいに強制的になにか自分の考えを文章に起こすという機会がないからその欲が爆発してこんな長い文章を書いてしまったのもあると思う。オチとかはないです。おわり。


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