見出し画像

文理の垣根を超えて〜『植物考』

◆藤原辰史著『植物考』
出版社:生きのびるブックス
発売時期:2022年11月

人文学の視点から植物とはなにかを再考する。植物をむやみに有り難がるのではなく、その毒気にも着目する。そのうえで、植物的なふるまいを哲学者や思想家や歴史学者がもっと摂取することを推奨する――というのが本書のコンセプトです。

何より意表を突かれたのは、ステファノ・マンクーゾを参照して植物の「知性」に言及している点です。

 植物には、近くの物体も、匂いも、光も、動物と同じように「感じる」ことができる。しかも感じるだけではなく、それを分析して、つぎの動きにつなげられる。脳はなくても、それは「知性」と呼んでもよいのではないか。(p41)

もっとも藤原はそのすぐ後に「植物が「知性」を持つ」という言い方に違和感を表明しているのですが、知性を「問題を解決する能力」と定義しなおしたマンクーゾのアイディアそのものを否定はしません。植物にはなるほど脳はない。そのかわりに、それぞれの部分が動物以上に外界の情報を感じ取り、その情報をやり取りすることで、問題解決へと向かっていく。マンクーゾは、集権ではなく分散、という植物のあり方に可能性をみて「植物革命」なるものを構想したのでした。

しかし現実の人間社会をみれば「植物的なものを人間社会に生かす」という態度には限界があることがわかります。そこで藤原は「人間の内なる植物性の痕跡を観察する」ことに向かいます。人間を「動く動物」というイメージで捉えること。それは、たとえば人間は腸に流れる「土壌」に根を張って栄養を吸収する、という表現にあらわれます。

逆に、植物は移動しないという一般的な認識にも訂正をせまります。歴史学者・川島昭夫の『植物園の世紀』を引用して、植物の移動について思いを馳せるのです。

 ……植物の個体は大地に束縛されているが、個体間の世代の交代を利用して植物は移動するのである。種子植物は世代交代にあたって、生殖質を種子のなかに保存する。種子は一般に軽いか、固いか、数多いかのいずれかであり、また環境への耐性がきわめて強い。こうして一種の厳重なカプセルにくるまれた植物は、自ら弾けとび、あるいは風の力を利用したり、鳥や動物に食べられることによって親の世代が生きた場所から遠ざかろうとするのである。(p184〜185)

人間は植物より上位に位置する生物なのでしょうか。
植物がなければ動物は棲めないけれども、動物がいなくてもすくなからぬ植物は生存可能です。本書は「植物を人間より下に見る思考法の批判」から成りますが、ラジカルな論客のように「植物に権利を与えよ」とまでは主張しません。「権利を与える」という態度自体が人間の食物連鎖や物質循環に対する傲慢さのあらわれであると著者は考えます。

 ……人間が動物と植物に権利を与えなくても、動物や植物が従う食物連鎖や物質循環の理を尊重することで、それらに権利を与えるよりももっと豊かに、残酷な交流が、人間の法的世界の狭さをはるかに越え出るような規模で行われている。(p219)

二〇世紀前半の歴史研究に従事する人間が、否が応でも植物について学ばねば先に進めないという「必然」によって、本書は書かれました。〈文系/理系〉という単純すぎる図式で教育制度が設計されてきたことへのささやかな抵抗の書でもあります。私がそうであったように、読者は本書から数限りない示唆を受け取るに違いありません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?