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「理性の復権」を唱えるのはナンセンス!?〜『感情で釣られる人々 なぜ理性は負け続けるのか』

◆堀内進之介著『感情で釣られる人々 なぜ理性は負け続けるのか』
出版社:集英社
発売時期:2016年7月

サブタイトルにある「なぜ理性は(感情に)負け続けるのか」というのは、いかにもタイムリーな問いかけです。米国大統領選のドナルド・トランプ氏の勝利がその象徴的なあらわれといっていいでしょう。あからさまに女性や移民を蔑視する下品な男が超大国の政治リーダーの座についたわけですから。その結果について「理性が感情に敗れた」とする論評はすでにたくさん出回っています。本書は大統領選の結果が出る前に刊行されたもので、時流にあわせて俄仕込みの知識を披瀝したようなものではもちろんありません。

もともとアカデミズムの世界では「理性」と「感情」の関係は昔から定番のテーマとして考察されてきました。最近では「理性よりも感情の方が大事なのではないかということがあらためて議論になっている」といいます。その流れのなかで「感情」のポジティブな面を評価する見解もさまざまに提起されているようです。

……感情的になること自体は否定されるべきでもないし、その必要もない。むしろ感情的であることが足りない場合さえあるかもしれない。大切なのは、感情的であることと同時に、それを自覚することであり、無自覚にならないための予防をすることだ。(p29)

堀内は、感情の動員に関して、動員「される側/する側」それぞれの視点から、広告やマーケティングの手法などを検証していきます。また政治における感情の動員についても歴史的に概観しています。

昔も今も、労働・消費・政治のそれぞれにおいて感情の動員が存在している。うまくいっている社会には必ず感情の連帯がある。それゆえ、感情的な連帯であるところのコミュニティに期待する論者が近代において数多く生まれてきたのです。アレクシ・ド・トクヴィル、ロバート・パットナム、マイケル・サンデル、ロバート・N・ベラーらがそうです。

そして最新の社会学の教えるところによれば、次のようになります。

必ずしも、感情の連帯が豊かになれば、社会がより健全になるということはできない。感情の連帯はよい社会に必要だが、それだけでは十分ではない。結局、感情の連帯はよい社会であればよりよく、悪い社会であればより悪く、その社会の構造を強くしてしまうだけだからだ。

「ナッジ」の可能性

では私たち一人ひとりはどのようにすればよいのでしょうか。感情の動員が一定の成果をおさめてきたことを見た以上、あらためて理性の復権をストレートに説くことが有効でないことは明らかです。そこで重要になってくるのは「ナッジ」という概念です。

「ナッジ」とは行動経済学で「多過ぎる選択肢を体系化して選びやすくする技術」を指す言葉です。〈iNcentive=インセンティブ〉〈Understand mappings=マッピングを理解する〉〈Defaults=デフォルト〉〈Give feedback=フィードバックを与える〉〈Expect error=エラーを予期する〉〈Structure complex choices=複雑な選択を体系化する〉の頭文字をとって「ナッジ」と呼ばれます。

たとえばトイレの男性用便器。尿はねを防ぐために適切な場所に標的を表示しているものを見かけることがあります。標的以外には何も記されてはいません。感覚的についつい標的を狙ってしまう人間の習性を利用して、尿はねを防止するわけです。

権力者が尿はねを嫌うならば、絶対に尿はねしないようにしなければ用を足せない仕組みを作りあげることもできるでしょう。選択肢を狭めることで人々を管理しようとする環境管理型権力とはそのようなものです。それに対してナッジには選択の余地が十分に残っている。堀内はナッジに期待する理由を以下のように説明します。

……トイレに描かれた標的は尿はねがもたらす掃除の苦労に思いを馳せながら便器の前に立つことを私たちに要求しない。また、立つ位置、目がける位置を側に立って教えてくれる補助員を必要としない。そして何よりも重要なのは、私たちの理性と意志が適切に働くことを前提としたシステム設計である点だ。つまり、コストを可能な限り抑え、選択の余地のないパターナリズムを避けることをナッジは可能にしてくれるのだ。(p200)

むろん、ナッジを可能にする制度に対しては、アーキテクチャーによる支配、パターナリズムではないかという批判はありえます。ならば、ナッジを権力者のパターナリズムに転化させないことが必要です。「ナッジであることを明記する」などナッジを自覚的に使うこと。堀内はささやかながらそのように提案しています。それは、理性を助ける「環境」をちょっとした「やり方」でととのえること、と敷衍していいでしょう。

正直、結論的に述べられているナッジの効用については、私には今ひとつピンとこないものがあります。わかったようなわからないような、とでもいえばよいでしょうか。しかし、感情の動員がいかに行なわれ、いかに効果を発揮してきたかを知ることは無駄ではありません。理性が負け続けるメカニズムを知っておくことは、理性の力を信ずることと矛盾しないのです。

感情による動員が必要だという人々は、まるで私たちの社会が理性を中心に回っているかのようにいう。しかし、繰り返し述べてきたように、理性的過ぎることが問題になるほど人類が理性的であったことは一度もない。理性それ自体への批判は重要だが、それは、いまだ十分に理性的でないことへの批判であるべきではないだろうか。だからこそ、私たちは、人間の非合理性を解決しようとしてきた。それなのに、「理性の時代は終わりだ、これからは感情の時代だ」などと言うのは楽観的過ぎる。(p210〜211)

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