見出し画像

人が寝転んで起き上がる映画〜『トウキョウソナタ』

黒沢清の『トウキョウソナタ』は、ひたすら画面だけを凝視するならば、現代における家族のあり方を問う映画という以前に、端的に、人が寝転んで起き上がる映画であるということができます。主要な登場人物には、その具体的なシーンが実際に割り振られています。

父親は、リストラされた後、ショッピングモールの清掃員として働いている現場で妻の恵と遭遇して混乱に陥り、やおら街中に走り出し、道路でクルマにはねられて、道端で落葉の中に埋もれた屍のように朝まで横たわっています。
恵は、ある日、自宅に侵入してきた泥棒に拉致されて海岸まで連れていかれます。その途中、つなぎの清掃員姿の夫と遭遇した後、浜辺の小屋で一夜を過ごすことに。夜、波打ち際で彼女は一人遠くを見やりながら、寝転んでしまうシーンは印象的です。小屋で目を覚ました恵は、すでに泥棒が小屋を立ち去ってしまった後であることを知ります。
同じ頃、次男の健二は、バスの無賃乗車で捕まり、警察署の留置場で一夜を過ごすことになります。彼は留置場の片隅で寝転がって眠っているところをゆり起こされて、釈放されます。

こうして奇妙な場所で別々に一夜を過ごした三人は、いずれも翌朝自宅に帰って、それまでとは違う家族のつながりを再確認する契機をもつことになるのです。

あらためて常識的に要約すれば、突拍子もない寓意性とリアリティを共存させた『トウキョウソナタ』は、現代社会の閉塞感や渾沌をユーモラスなオブラートにくるみながら描いてみせた傑作といえます。

一流企業の総務課長として働いていた佐々木竜平(香川照之)は、ある日突然に会社からリストラされます。けれども人一倍父親としての威厳に固執する彼はそのことを家族に告げることができず、毎日、スーツを来て出社するフリをしながら職探しをします。
大学生の長男(小柳友)は、アルバイトに明け暮れる日々でしたが、これまたある日突然にアメリカ軍に入隊します。次男(井之脇海)は、近所のピアノ教室に通うことを願って父親に反対されますが、あきらめきれず給食費を月謝に流用して内緒でピアノを習い始めます。
妻であり母親である恵(小泉今日子)は、そんな家族を優しく思いやりながらも何か満たされない思いを抱きつつ暮らしている。

それぞれが互いに秘め事をもちながら微妙な均衡のうえに営まれている家族の状況をシンボリックに示した場面は、四人の家族が同じ食卓を囲んでいる場面にあらわれています。父親一人が冷蔵庫から缶ビールを取り出し、自分でコップに注いで飲み始める。他の三人はやや間が悪そうにおし黙ったまま座っている。父親が何口かビールで喉をうるおした後にようやく箸を持って「いただきます」とおかずを口にした瞬間に、初めて妻も二人の息子も「いただきます」と唱和して食事を始めるのです。一見、父親の威厳が保たれているようにみえるこの象徴的なシーンは、その絶妙の間合いといい、名状しがたい雰囲気といい、実に秀逸です。

やがて家族は同じように食卓を囲むこともなくなり、次第にバラバラになり、不協和音がよりはっきりと家庭のなかで具象化するようになっていく……。

この映画に特徴的なのは、重要な場面で必ずしも登場人物の顔を正面から捉えない点です。
竜平が会社から肩をたたかれる場面では、上司がこちらを向いていて彼の背中が映し出されるのみ。就職活動の面接の席で自分の武器をその場で示すように言われ、しぶしぶカラオケの真似事をさせられるという屈辱的なシーンでは、歌い始めた瞬間に、彼が友人の前でウサを晴らす場面に切り替わります。
また、映画の冒頭、勝手口のサッシから吹き込んでくる雨風に気づいた恵が引き戸を閉め床を拭いてから、また戸を開けて外を見上げるシーンは、彼女が家庭の平穏を守り且つ外の世界にも関心を寄せている存在としての両義性が暗示されていて実に巧みなのだけれど、そこでも彼女の後ろ姿がやや引き気味のショットで捉えられるのみです。
余計な撮り方をしないことで映画としての節度を維持し、また観客の想像力をやわらかく刺戟するのです。

あえてラストシーンについて書いておきます。

ピアノ教室の金子先生(井川遥)からその才能を見込まれた次男の健二は音楽大学付属中学校の入学審査のピアノ演奏会で、ドビュッシーの《月の光》を演奏します。演奏が終わった時、文字どおり暗闇の中に輝く月の光のように、部屋の中に光が射しこんでいる。それは同時に彼ら家族の未来を灯す一条の光でもあるかのようです。声高らかに家族愛を謳歌するわけでもなければ、一切の屈託が晴らされた快活なハッピーエンドで幕を閉じるわけでもないのだけれど、この静かにして美しいラストシーンに、あらためて黒沢清の卓抜なセンスと品性をみた思いがします。

*『トウキョウソナタ』
監督:黒沢清
出演:香川照之、小泉今日子
映画公開:2008年5月(日本公開:2008年9月)
DVD販売元:メディアファクトリー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?