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思想史の大きな流れから学ぶ〜『自由とセキュリティ』

◆杉田敦著『自由とセキュリティ』
出版社:集英社
発売時期:2024年5月

新型コロナウイルスによるパンデミックでは、世界各国で感染症対策として種々の行動制限が行われました。それは現代社会の普遍的価値となった個人の自由と衝突する場面を増やすことになりました。もっとも日本では公衆衛生の観点から個人の自由がある程度制限されるのはやむを得ないという認識が広く共有されていたように感じられます。セキュリティを重視し個人の自由を制限する方向に一定の理解が集まったのです。

政治学者の杉田敦はそうした風潮に疑義を呈します。本当にそれでよいのか。セキュリティを確保するためには自由の価値に目をつぶることも必要という為政者の言葉に素直に従っていいのかと。

杉田は本書発刊後に行われた宇野重規との対談で次のように述べています。

セキュリティがなければ自由も何もないということは確かにあります。しかし、そういう話だけに集中していくと自由は見失われてしまうのではないか、という違和感を、私は以前から持っていました。

本書では、そのような基本認識のもとに、ミル、ホッブズ、ルソー、バーリン、シュミット、フーコーの6人の思想を読み解いていきます。いずれもセキュリティと自由の相克という問題について貴重なテクストを遺した思想家です。いや正確にいえば、そのような観点から6人の思想を読み直したという方が適切かもしれません。

『自由論』で知られるミルは、社会の「多数者の専制」に抗して、個人の選択を擁護しました。それに対してセキュリティを強調した思想家の代表といえるのがホッブズです。ミルよりも古い時代に生きた人ですが、「万人の万人に対する闘争」を抑止するために政治権力の介入の必要性を説きました。ルソーもまた「少数派は多数派の意見に合わせることで自由になれる」と考えました。その意味では自由よりもセキュリティの確保に関心をもっていた思想家といえるでしょう。

20世紀に入ると、バーリンが自由の概念的な整理を行い、そのうえで多元主義と自由を強く擁護しました。ホッブズの後継者であるシュミットは、戦争と内戦の時代にセキュリティ確保を構想しました。政治とは戦争であり、実際の戦闘行為は政治が選択する一つの手段というよりも、政治が可視化したものにすぎないと考えたのです。
フーコーは、既存秩序への対抗の契機を歴史の中から発掘しようと企て、独特のやり方でセキュリティ重視の政治理論を批判しました。本書の文脈でフーコーを取り上げるのは一つの見識を示すものと思います。

ところで、杉田は前段で引用した宇野との対論のなかで「ジョン・ロールズらに代表される最近の政治哲学が往々にして、自由の条件としてのセキュリティの確保に注目してきたこと」に言及しています。そのような論点にのみ注目すると、自由は見失われるのではないかというのが杉田の問題意識でした。

本書では、6人の思想家の仕事が鮮やかな手並みで交通整理されているですが、あるいはそれ故に、ここに登場しないロールズのテクストをきちんと読み直してみたいと思った次第です。

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