差別や偏見について私が思っている二、三の事柄

東京・南青山に計画されている児童相談所などの複合施設「港区子ども家庭総合支援センター」(仮称)の建設に対して、地元住民の一部から強硬な反対意見が出ていることがマスコミでも取り上げられ波紋を広げています。
私が社会人として生活を始めたとき、最初の数年間を南青山にある会社の仕事で食べさせてもらっていたので何かと思い出深いエリアではあります。

地域のブランドイメージを毀損するという彼らの反対理由にはもちろん賛同できません。とりわけ違和感をおぼえたのが、「3人の子を南青山の小学校に入れたくて土地を買って家を建てた。物価が高く、学校レベルも高く、習い事をする子も多い。施設の子が来ればつらい気持ちになるのではないか」という女性の発言です。施設の子どもを心配するふりをして自分たちの地域エゴを糊塗する偽善的な物言いは実に嫌らしい。

差別や偏見は、このようにしばしば相手のことを思いやる態度を偽装していることがあります。子どもや弱者に対する虐待が「あなたのことを思って」としつけや教育にかこつけて合理化がなされることもよく知られていることです。確信犯的にそのように振る舞うこともあるでしょうし、本人が自身の欺瞞をまったく自覚していないこともあるかもしれません。

個々の人間関係だけでなく人種間・国家間でも同じようなことが言えます。大航海時代以後、ヨーロッパの列強がアジアやアフリカを植民地支配する際には「文化の遅れた人びとを啓蒙するのだ」という正当化の理屈を掲げたものでした。人が人を支配するとき、ストレートにその事実と向き合うことは誰にとっても多かれ少なかれ良心の呵責が生じるということなのでしょうか。

好きな言葉は何かと聞かれて「思いやり」と答える人は私の周囲にもたくさんいます。それだけに自分が実践しようとしている「思いやり」が、本当に相手を尊重する純然たる気持ちに発するものなのか、自分のエゴイズムや支配欲を誤魔化すためのものであるのかは、時に自己点検が必要ではないでしょうか。「思いやり」という心性それじたいは誰にも否定できない尊いものであるがゆえに、なおさら注意が必要だと思います。

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