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善人でもなく悪人でもなく〜『ディア・ドクター』

夜の帳が下りた農村地帯の道を一台の自転車が走っていく。道端に白衣らしき物が落ちている。自転車が止まり、白衣が拾われ、身に纏われて再び自転車が走り出す。鮮やかな緑色の稲穂が風に揺れる山あいの農村を舞台にした映画が、美しい環境を際立たせる日中の明るい陽光の下でなく夜の闇の中でライトを灯して走る自転車をロングショットで捉えた場面から始まる。
──このオープニングはなかなかに暗喩的でもあり、秀逸です。

村でたった一人の医師が突然に失踪します。
捜査にやってきた刑事が村人たちに聞き込みを開始。そうして、医師・伊野治(笑福亭鶴瓶)の素性が次第に明らかになっていく──。

映画では、失踪の二ヶ月前、東京の医科大学を卒業したばかりの研修医・相馬(瑛太)が赴任してきたところから語り起こされます。伊野がいかに村人から尊敬され頼りにされていたか、時にコミカルに時にヒューマニスティックに描いていく西川美和の脚本・演出は巧い。
人間味あふれた伊野の診療ぶりをみて、相馬は疑問をさしはさみながらも次第に伊野への敬慕とこの村への愛着を深めていきます。もっとも、ドクター伊野は非の打ちどころのない高潔の士というわけでもなく、薬卸しの営業マン(香川照之)とつるんで何やら怪しげなことをしていることも早い段階で示唆されます。

世の中には単純な善人も悪人もない、一人の人間の中にも多様な性質が潜んでいるのだ──という西川の認識は前作『ゆれる』でも十全に具現化されていましたが、ここでもそうした人間描写が精彩を放っています。
それは笑福亭鶴瓶を主演に迎えたキャスティングに象徴されているでしょう。私がこれまで映画館のスクリーンで対面してきた鶴瓶には今一つ強い印象の残ったものがありません。人なつこい、いかにも関西人っぽいおっさんを少ない出番で月並みに演じ(させられ)たような配役が多かった。その意味では鶴瓶独自の魅力を充分に引き出した監督はいなかったと思います。この作品での鶴瓶は多面的な顔をもつドクター伊野をごく自然に演じて、彼以上の適役はいないのではと思わせるだけの存在感を示しています。

僻地医療や高齢者介護といった今日的な課題に触れた作品には違いありませんが、この映画の面白さは、そのような社会問題を映画的に言及したというようなワクに収まり切らないニュアンスに富んだ人間描写にあるのではないでしょうか。

伊野は夏の暑い一日、一人暮らしの未亡人・鳥飼かづ子(八千草薫)を診察します。東京で医師をしている娘の世話にはなりたくないという彼女の気持ちをくみ取り、二人で「嘘」を共有するところから話は思わぬ方へと転がり始めます──。

バイクで走り去った伊野の後ろ姿をキョトンとした顔で見送る子供。逃亡中の伊野と認知症の進んだ父親とが電話を通じて交わす哀愁に満ちたやりとり。……そんなこんなでちょっぴり切ない気持ちを掻き立てられたあと、病院のベッドにいるかづ子とともに迎えるラストシーン(オチといった方がいいかもしれない)には「お、そうきたか」と思わずニンマリさせられることでしょう。

真っ赤な嘘は嫌われるけれど、ピンクの嘘なら歓迎される、と言ったのは寺山修司でした。鶴瓶扮するドクター伊野の真っ赤な嘘は、白衣のホワイトに薄められてピンクの嘘になっていたのでしょうか──?

*『ディア・ドクター』
監督:西川美和
出演:笑福亭鶴瓶、瑛太
映画公開:2009年6月
DVD販売元:バンダイビジュアル

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