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ゴリラ研究者が語る人類の未来〜『スマホを捨てたい子どもたち』

◆山極寿一著『スマホを捨てたい子どもたち 野生に学ぶ「未知の時代」の生き方』/
出版社:ポプラ社
発売時期:2020年6月

スマートフォンなしの生活など今では考えられないものになりました。
しかし。「スマホを捨てたいと思う人は?」と問いかけたところ、多くの子どもたちが手を挙げたという挿話をもって本書の記述は始まります。
「生まれたときからインターネットがあり、スマホを身近に使って、ゲームや仲間との会話を楽しんでいるように見える若い世代も、スマホを持て余しつつあるのではないか」。

霊長類学者の山極寿一がゴリラ研究の成果を踏まえつつ、自然の脅威、テクノロジーの進化をどう受け入れ、どう豊かに生きるかを考えるというのが本書の趣旨です。

ゴリラに関する知見は山極の既刊書に書かれていることが大半で、その意味では本書に目新しさはありません。ゴリラ研究で得た知見がこれからの時代の生き方を構想するうえでいかなる指針を与えてくれるのかが読みどころと思われますが、なかでも人間に特有のフィクションの力を論じるくだりが興味深い。

ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』で、人類が地球上の食物連鎖の頂点に立つことができた理由を、ヒトのフィクション操作能力に求めました。「虚構」を信じる力、すなわち「架空の事物について語る」能力こそが、サピエンスに高度な文明をもたらしたのだと。

山極もまた人間の「フィクション」をめぐる能力について多くの紙幅を費やしています。ハラリと異なるのは、その能力の負の側面に着目している点でしょうか。

いうまでもなくフィクションを生み出したのは言葉の力です。
言葉をもたない動物は、その場で瞬時に直観で対峙し問題を解決します。人間も本来、同じ能力をもっていたはずですが、言葉の力が大きくなるにつれ、その力が減退しました。そうして人間の世界には、身体を通じたコミュニケーションをまったく無視した社会が出来上がったのです。山極はそうした身体感覚の喪失を指摘した上で、現代のSNS社会も批判的に吟味して、スマホ断ちのススメへと展開していきます。

山極の見解は、インターネットの黎明期から提起されてきた問題で、そこでもとくに目新しさは感じられないのですが、デジタル社会を相対化するものとして東洋哲学における容中律を持ち出しているのが、良くも悪しくも本書の主張といえるでしょうか。

容中律とは「肯定でも否定でもなく、肯定でも否定でもある、とする論理」で、「0か1、その間を許さない西洋発の概念「排中律」の逆を行くもの」です。「移民か、移民でないのか」「アメリカに利するものかそうでないか」「敵か味方か」「お前はどっちか」と迫るアメリカ流の発想はまさに排中律の典型といえます。

「どちらでもある」ということが言えれば世界は変わるのに、それができずに、世界は行き詰まりを見せています。だから、それを解決する手段として「容中律」という哲学、科学のあり方が模索されているのでしょう。(p183)

他の言葉でも言い換えが可能と思われるこうした結語的なメッセージに、どれだけの読者が面白味を感じるかはよくわからないのですが。

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