見出し画像

33歳独女の人には言えない5つの悩み

30代は転げ落ちるように過ぎていくという言葉をよく耳にする。

私は今33歳。
すでに転げ落ちかけているのだろうか。

あと7年があっという間に過ぎていくと思うと、少しこわい。

さらに言っておくと私は独身だ。
昔に比べればきっとマリハラ(マリッジハラスメント)満載の言葉はかけられなくなったんだと思う。
それでも、昭和を生きたオヤジたちからは「結婚しないの?」と言われる。
なぜ聞く必要性があるのかと思うが、オヤジたちはそれを悪いことだと思っておらず、至極当然のことだと思っているので、そもそも話が通じない。
冷やかしなのか、コミュニケーションの一環だと思っているのか、腹立たしさしか覚えないし、2回以上その言葉を投げかけてきた人は私の中で「苦手な人」の分類に入れることにしている。

独身女性のことを「独女」とも言うし、「毒女」とも言うらしい。
独身を前向きに楽しんでいる女性のことを「独女」、結婚できない独身女性のことを「毒女」と呼ぶのだと言う。
まったく失礼にもほどがある。
個人的には自分のことは独女だと思っているが、周りの人は毒女だと思っているのかもしれない。
ま、周りに何を言われようが、私が独女と思っていれば独女なのだ。

そんな私が今だからこそ書ける、今の自分の等身大の悩みを記録しておこうと思った。

30代が終わる日に私はこの記事を読み返したい。

33歳。

誕生日のその日、上司からは
「散々の33やな!」と、それはそれはうっれしそうに言われた。

こんな上司が存在していいものかと普段は尊敬している上司であったが、その時は少し軽蔑した。

だが、確かに33歳になってから、少しずついろいろなことに変化が出始めた。
今回は主に5つのことを書き留めようと思う。

【1.体の悲鳴】

「30過ぎると体にもさまざまな症状が出始める」と言うと、さらに年上の方たちからマウントをとられることが多々ある。
「そんなの悩みのうちに入らない」「50過ぎたらわかる」「まだまだ若いんだから」と。
なぜ老いの話になると人は意気揚々と話し出し、自分の方が辛いことを主張するのか。
でも、私だってきっと20歳の子と話していたらそうなるのかもしれない。
歳をとるということはそういうことなのだろう。

そりゃもちろん、白髪が増えただの、老眼になっただの、腰が曲がってきただの、それほどの悩みではないかもしれないが、33歳の私にとっては致命的な悩みがある。

それが何なのかお話する前に、一つのエピソードを紹介したい。

私が三十路を過ぎたある日、その恐ろしい出来事は起きた。

あれは私がある講座を行うために、取引先に訪問した時のことだ。
その会場では靴を脱がなければならなかった。
私はいつも通り、パンプスを脱ぎ、ストッキングで歩き回った。

その時に、今まで感じたことのない、鼻が曲がるような激臭がした。この世のものとは思えない、なんとも形容詞がたい臭いだった。

私は(くっっっっさ!!!!!誰…!?クサすぎる…こんな足の臭いの人が存在するなんて信じられない!足がクサイって罪だな…私も気をつけよう)と本気で思っていた。
絶対に自分ではないと思っていたので、受講者の誰かが犯人だと思い込んでいた。

そして仕事を終え、家に帰ってから、またあの時の臭いがした。

(もしかして臭いが移った!?最悪…クサすぎ…)と、それでもまだ自分ではないと思っていた。
だが、少し経ってからローソファに座り、下からその臭いが込み上げてきた瞬間にハッと気づいた。(これってもしかして…私が戦犯?)と。

そして、自分の足を鼻に近づけてみた。

…………………クサッ!!!!!!!!!!!!!!!!

私はこの時の衝撃をきっとずっと忘れない。

そう。私の体の悩み、それは「足の臭い」だ。

それまで私は自分の足が臭いなんて思ったことがなかった。
部活もしてきたし、社会人になってからもスポーツをしたり、ウォーキングをしたりしていたが、足が臭いと思ったことなんて数えるほどだった。
それでも、普通にお風呂に入ったり、足を洗えば臭いは消えていた。

しかし、今回の足の臭いはそんなに生易しいものではく、普通のボディソープで洗っても、一切臭いが消えなかった。
年齢を重ねると、足が臭くなるなんて…誰も教えてくれなかった。
原因はおそらく、ストッキングとパンプスによる雑菌の繁殖ではないかと思うが、そこに年齢によるターンオーバーの乱れから角質肥厚になり、クサイ角質が私の足に張り付いているのではないかと考える。

私は途方に暮れた。
こんな日がくるなんて思ってもみなかった。
某人気アニメの主人公の父を笑う資格は私にはもうない。

だが、落ち込んでいる暇はない。
30過ぎても女に変わりない。足がクサイ女の需要なんてないに等しい。

そもそも、臭いというのはすべてを台無しにしかねない、と私はかねてより考えていた。
どれだけ身なりを綺麗にしても、性格がよくても、口が臭かったり、汗臭かったり、それこそ足が臭かったりすると一気に印象が下がると思うのは私だけではないはずだ。
だからこそ、今回の「足激臭事件」は自分の中で許せなかった。

私は急いで近所のイオンに駆け込んだ。
化粧品売り場にある、足の形をした石鹸を見たことがあるだろうか。
私は遠い記憶の中でそれを思い出し、すぐさま購入した。
その横に置いてあった「フットブラシ」も一緒に購入した。
人は焦りを覚えると、どうして本当にいるかどうかもわからないものまで買ってしまうのだろうか。
衝動買いをする人の心理のひとつに、自分を変えてくれると思うものを人は衝動的に購入してしまう、というのを聞いたことがあるが、この時の私はまさにそれだった。

さらに、靴売り場に行き、靴専用の消臭スプレーも購入した。
効くかどうかは正直わからないが、なんでも試してみる価値はある。

早速家に帰り、足を洗った。
私の衝動買いが功を奏し、足の臭いが劇的に軽減された。
石鹸一つでこんなにも心が軽やかになるとは思ってもみなかった。
臭いが消えることが癖になりすぎて、足が臭くないと物足りなさを感じるほどに、石鹸の効果はすごかった。

しかし、靴の臭いはまだまだ強烈だ。
天気のいい日には天日干しをしたり、暇があれば消臭スプレーを振ったりしているが、靴を脱いだ瞬間に足の臭いがするところを見ると、やはり靴にも大いに原因がありそうだ。

この先、臭いが消える体になる日がくるとは思えない。
それどころか、他の部位も今は気にならないだけで今後悩みに変わる日がくるかもしれない。
私の戦いはまだまだ続く。
隠れて「あの人、スメハラ(スメルハラスメント)だよね、なんて言われないように。

【2.食の悩み】

私の食の好みは簡単に言えば「男性や子供が好きな食べ物」だ。
例えば、ファミレスに行ったら大体ハンバーグセットを食べるし、マクドナルドも大好き。肉料理やカレーライス、揚げ物、白米、あと甘いものも好きだ。
反対に野菜は「そろそろ食べないとまずいかな」と思わない限りは基本的に食べない。

どうも感覚が昔のまま止まってしまっている。
嫌いな食べ物は小さいころから一切変わっておらず、「大人になってから食べられるようになった」とよく聞くが、私にそんなものは存在しない。
大人になっても食べられないものは食べられない。

恋人の前でも頑なに大嫌いなトマトを食べようとしなかった。
そんな私を、「俺の力でおまえを変えてやるぜ」とでも思ったのか、彼は私にそれを食べるよう、優しく諭した。

その時私は、中学生の頃に部活の合宿で先輩や顧問の先生から無理やり食べさせられそうになったのを思い出した。

恋人の前だと「私、頑張ったよ(うるうる)」という姿を見せたかったので、無理やり押し込んで食べたが、今でもけっこう恨んでいる。

トマトを食べたからと言って、私の人生は豊かになることはないのに、なぜ食べないといけないのか。
それなら、トマトが好きな人に食べてもらった方が農家の人だって、トマトだってきっと嬉しいだろうと私は思う。

そういえば昔、父が家庭菜園で育てたトマトが食卓に並んだことがある。
それも見て見ぬふりをして食べようとしなかった私に、父は激怒し、無理やり私に食べさせた。

それでもどうしてもトマトの匂いや触感が苦手で吐き出してしまった。
父は「お父さんが育てたトマトがなんで食べられへんのや」と嘆いていたが、父が育てようが、プロが育てようが、嫌いなものは嫌いだし、吐き出すくらいなら食べようとは思わない。

話がかなりトマト側に反れたが、とにかく私の食の好みは幼い。

そして、「これくらいなら食べられるはず、という感覚」がこれまた大学生の頃のまま止まっている。

どうやら私の中身は大人になることを拒んでいるようだ。

バイキングに行った時など(この歳でも行くのかと言われそうだが)心底思い知る。

お皿一杯に肉類をとってきて(お気持ち程度にサラダもとる)お寿司やカレーもとってくる。
食べられると信じてやまないからだ。

だが、実際食べ始めるとどうだろう。ほんの数分で箸が止まるではないか。
こんなはずではない…と、そのお皿分は頑張って食べきるが、2回目からは極端に量が減る。

最もショックだったのは、実家ですき焼きを食べていた時のこと。
今まではご飯3杯は軽くいけた。
両親からもお肉をとる箸を止めないか、と窘められるほどだった。
お米だって母が十合炊いてくれていたと記憶している。
それが今となっては、お肉を3枚ほど食べただけで、もう胸やけをおこしそうになっている。
もちろんご飯は1杯食べきれれば良い方だ。

「食べられるうちに食べておけ」と若いころによく聞いたが、その意味を30半ばにして理解した。
もう私はあの頃のように霜降り牛をたらふく食べられる体ではなくなってしまった。そしてこれからそれは加速していくばかりだ。

今はまだ食べられている日清やきそばの袋麺。(2袋分)
これもそう遠くない未来に1袋しか食べられない日が来るのかと思うと悲しくなる。
どうせ食べられなくなる日がくるのであれば、今は体型なんて気にせず好きなものを食べてやろうじゃないか。
誰に売るわけでもないが、喧嘩腰でそう呟く私がいた。

【3.性の憂鬱】

恋人であれ、セックスフレンドであれ、体を重ねるパートナーがいる人は性について悩んだことが1度はあるのではないだろうか。
私も例外ではなく、ただ本格的に悩みだしたのはつい最近になってからだ。

こんなこと親には口が裂けても言えないが、若かりし頃の私はセックスはスポーツだと思っていた。
いろんな人と体を重ねたし、罪悪感がないわけではなかったが、単純に好奇心や性欲が強かったのもある。

あの頃の自分からは考えられない、今の私の悩みをここに書き留める。

今の私には若くて可愛い年下のパートナーがいる。(9歳下)
まだまだ若さの絶頂にある彼は、性欲も旺盛だ。
私も1年程前まではそれに応えられるくらいの性欲があったはずだった。

彼との付き合いはもうすぐ6年目になろうとしていた。

私は数カ月前くらいからピルを服用し始めた。
避妊目的でもあったし、生理痛が重かったからというのもある。

私の暮らしはきっと快適な方向に進むはずだと信じて疑わなかったが、事態は思わぬ方向へと動いた。

ピルが関係しているかどうかはわからないが、私の性欲が忽然と消えてしまった。
まったくそういう気持ちになれない。
これはこれで辛いところがある。

今までは彼と会うだけで子宮がじゅん…(潤)となり、すぐに万全の体制に整ったのだが、今は完全に砂漠と化していた。
この砂漠に一体どうすればオアシスがやってくるのか、皆目見当もつかない。
友人に「実はアレの時に濡れなくて」と相談された時もまったく共感できなかったあの頃の私。あなたにもそんな日がくるよ。
セックスの時に濡れないなんて、50か60になってからの話だと思っていた。
(50、60でも濡れる人もいるだろうが)

女性は30を過ぎると性欲が増す、とよく聞いたので勝手に安心していたが、そうでもないらしい。

このことを同級生の友人に相談すると、なんと彼女も同じ悩みを抱えていた。ただし、彼女には3人の子供がいて、3人目の子供を産んでから性欲が湧かず、同時に砂漠化も加速したのだという。
実に深刻な悩みだったので、ホテルでランチをしながらではあったが、延々と二人で話し続けた。

マンネリ化もあるのかもしれない。
私の彼も、彼女の旦那様も性欲が強く、セックスする回数が尋常ではなかったのも原因のひとつだと私たちは考えた。

ただ、子供を3人産んでから性欲が減退するのと、1人も授からないうちから性欲が減退するのではかなり状況が違ってくるのではないかと感じる。

乾いた状態のセックスはまさに地獄でしかない。

そしてこれはピルのせいではなく、年齢のせいなのかもしれないということも違う意味で地獄だった。

こうなってみて初めて浮気や不倫する人の気持ちもわからなくはないな、と思ってしまった。

いつも通りのパートナーとのセックスが苦痛に変わった時に、隣に座っているだけで子宮がじゅん…となる相手がそばにいたら私ならコロッといってしまうかもしれない。
男性でいう「妻だけED」のようなものであれば、他人とのセックスに興味が湧くのも無理はないとさえ思えてきた。

それにしても、これは一体どうして克服していけばいいのだろうか。
友人曰く、子宮というのは子供を産む以外は必要のない臓器らしく、年齢と共に代謝が落ちるらしい。
なので、回復させたければ血行を促進し、また活力を与えてあげないといけないと言われた。

巷にはそのためのエステがあるらしい。
友人に聞くと、よもぎ蒸しのように体を温めてから、機械を使って子宮をマッサージしていくとのこと。
それをしたら数日は子宮が潤うようになったと言っていた。
なんと…まさか人工的に濡れる要素を作るしかないなんて。
今まで思ったことなかったが、この時初めて私は「大人の階段を上ったんだな」と思った。
きっとみんなそうやって乗り越えているのだろう。
もしくは、パートナーとの雰囲気づくりを大切にするのも一つかもしれない。
これは放っておいて改善することはないだろうから、試行錯誤してみるしかない。
最も、いつまでパートナーがいるかわからないので、その間だけでもしっかり潤う体を持続させたいものだ。

世のパートナーのみなさま、女性の苦労をわかってあげてくださいね。
キスしときゃー濡れるだろ、じゃなくなる日がそのうち来ますので。

【4.職の鬱憤】

私は化粧品会社に勤めている。
仕事内容に不満があるわけではないが、このままでいいのかなと思うときはたまにある。
私はこうして文字を打ったり、一人で黙々と作業するのが好きだ。
だが、今の仕事はどちらかというとコミュニケーションを図ってナンボの仕事だったりする。
基本的に仕事とはそういうものなのかもしれない。

私が今こうやってエッセイを書くことができているのは、会社に行っていろんな人と話すからこそ吸収できている(ネタにしている)こともたくさんある。
人に会うからこそ、自分一人では見つけることができなかった面白いことに遭遇したり、いろんな考え方を知ることができる。

だが、それと同じくらいストレスが溜まるのも事実だ。

会社にはまだまだハラスメントの塊のような昭和のオヤジはいるし、性格の悪さが顔に滲み出ているオバサンもいる。
普段は仲良くても仕事になると許せない同僚や、サボるのが仕事だと言わんばかりの先輩を見ていると、真剣に働いている自分が馬鹿らしく思えてきたりもする。

その中でも、私が特に許せないタイプの同僚の話をしよう。
その同僚は基本的には真面目に働いている。
コミュニケーションを図るのも上手いし、販売力もある。
見習うべきところはたくさんあるが、どうしても許せないのは、本人が100%仕事をしているつもりであっても、周りからしたら50%ほどの仕事しかできていないこと。

本人は自分の中では一生懸命している、周りの人と同じくらい仕事ができていると思っているらしいが、彼女ができていない仕事のフォローを全部こちらが行っている。
個人個人の仕事の他に、共有の雑務があるのだが、それがほとんどできていなかったりするが、こちらがしても気づくことさえない。
それはそうだと思う。きっと彼女はそんな業務があることさえ、知らない。
個人の仕事の時間を上手くこなして、時間を作り、共同の雑務をするべきだと私は思っているが、彼女はそうではないらしい。

いつも自分がいっぱいいっぱいであることをアピールしてくる。

それは「私は仕事ができない」と言っているのと同じことだ。

そういうのを見せずに、人の知らないところで仕事を片付けて「え?もう終わったの?」と言われたい私とは正反対だと思った。

年齢的には10ほど上なので、こちらも気を遣いながら要望を伝えたりするが、あまり真に受けてもらえない。

心底腹が立つし、ストレスも溜まる。
なんでこの人と給料が変わらないんだ、と恨めしくも思う。

だが、最近になって気づいたことがある。

この人が賢くなくてよかったなと。
賢い相手であれば、うまくサボったり、周りに味方をつけて、こちらの仕事が滞るように仕向けてきたりするかもしれない。
今、私が思っていることを反対に思われているかもしれない。
そして、いつの間にか私を孤立させてしまうかもしれない。

そう思うと、その同僚は非常にピュアで人を陥れるようなタイプではない。
そこは救いだったなと思う。

最低な励まし方ではあるが、自分をそうやって鼓舞するのだった。

きっとその人は一生50%の仕事しかしないだろうが、きっと一生私を陥れることもしない、と胸を張って言える。
もし、仕事の人間関係でお悩みの方は、今嫌っている人間よりもっと最低な性格の人が職場にいたら…という視点で考えてみると少しはマシに見えるかもしれない。

こんな解消方法、全くさわやかではないが、きっと今の世の中ではさらに下を見た方が、見る方が、簡単だと思うので、ぜひ試していただきたい。

【5.幸せに生きるために】

最後に、悩みというよりも幸せに生きていくために大切なことを書いていきたい。

幸せに生きていくために必要なこと、それは『自分軸を持つこと』だと私は思う。

自分の周りにいる「この人、幸せだろうな」と思っている人の大半は自分軸で生きている。

反対に「この人は生きるのしんどそうだな」と感じる人は他人軸で生きている人。

間違えないでほしいのが、自分軸=自己中心的ではないということ。

他人軸で生きている人の一番の特徴は、人と比較して自分を嘆いているところ。

「あの人は家もあって、結婚もしていて、なんて幸せそうんなんだろう。それに比べて自分は…」
「あの人は自分でバリバリ稼いで、好きなものを買ったり、自分の時間があったりしていていいなぁ。それに引き換え私は…」

こういった思考の持ち主が一番勿体ないと思う。

自分は自分であって、他に人と同じ人生を送ることはできないし、その人にはその人なりの苦労がある。それを鑑みることなく、例えばSNSの写真を見て羨ましがる。

自分で自分を苦しめているだけのように見えて仕方がない。

特に30代はライフスタイルに様々な変化がある。
結婚したり、子供を産んだり、それらをせずに働いたり、働く必要がない人も、働くことを選んでいない人もいるだろう。

その中で全く同じ人たちはいない。

状況が似ていても内情が違ったり、生きてきた環境が違うことで感じ方が違ったりもする。

大切なのは、自分のことを自分がどう思っているか。

これに尽きる。

幸せはいつも自分の心が決める、という言葉を目にしたことはないだろうか。
これは本当にその通りで、同じ出来事があったとしても、それを喜ぶのか嘆くのかは自分の心の持ち方ひとつにかかっている。

雨が降って「最悪」と思うのか「これで大地が潤う」と思うかの違いだ。
私はもれなく後者の考え方をしている。
雨の例はあまり参考にならないとは思うが、例えばファッションにしても「この恰好で行ったら浮くかな…無難なもので行こう」としても、それで気分は上がるだろうか。
自分が最高に気に入った服を着た方がきっと幸福度は高い。

高いものを着れば良いわけではなく、自分が良いと思っているかどうかが大切だ。
無難な格好で行った方が幸せと思えるならそれもいいだろう。

だが、限られた自分だけの人生を生きるのであれば、これだけは人に立ち入らせないと思える大切なものやポリシーがあった方がきっと充実した人生を送ることができるのではないかと思う。

かく言う私は、一切他人の目を気にしない。
自分がいいと思ったものがすべて、と思っている。
だから、買い物で失敗したなと思うこともないし、自分が選んだものはすべて正解だと思っている。
年齢やキャリアに縛られない、ありのままを自分を愛することは、自分を大切にすることにも繋がる。

間違いや失敗なんてない。
あなたが選んだこと、選んだものはすべて正解であり、幸せにつながっている。

たった一度きりの人生、これでよかったと思いながら過ごすのか、こんなはずじゃないのにと思いながら過ごすのかはあなた次第。

少なくとも私は33年間こう思って生きてきた。
きっとこの先もこの思考で生きていくだろう。

この文を読んで、少しでも自分の決断に前向きになれた人がいたら嬉しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?