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「魔」が育つとき

傷つけるつもりはなかった……そんなつもりじゃなかった
悪意はなかった、と人はよくいう。でも、本当に悪気はなかったのか?

誰かが誰かの言葉に傷ついた時、大抵悪気はあっただろう、と思う。

例えば「おめでとう!」と言われて、心底嬉しい時と、なんとなくじめっとしたものを感じる時がある。
クリアなおめでとう!は素直に嬉しい。
でも「おめでとう!」の背景に「ずるい」「羨ましい」「なんであんたが……」という思いが潜む時、それは相手にはっきり伝わる。

どんなに「私は女優よ」と思っていても、大抵伝わる。

詰まるところ、人間が胸の内で無意識につぶやいていることは、隠しきれない。心の雑音はいつも、あからさまにその人の姿形に顕れている。

誰かが自分より幸せそうに見えたとき。
相手が誰だったとしても素直に100パーセント祝福できるかどうか。
私は自信がない。

大好きな人だったら、自分のことのように一緒に喜ぶだろう。

でも、嫌いな人だったら?あるいは自分より「ちょっと下」と思っている人だったら?あるいは、かつて自分をいじめた人だったら?

多かれ少なかれ、羨望や妬みが湧いて出てくる。
「おめでとう!」とにっこりと笑って伝えたとしても、その裏でふっと、魔がさすように思う。
「どうしてあなたが……」

それはたぶん、相手に伝わる。

そんなことを思う自分を自覚すれば、自分のこともうとましいから認めたくない。自己嫌悪に陥るから。でも、そう思う自分を止めることはできない。
その「魔」に気づかないふりをしていると、魔は煙のように立ち昇ってきてみるみる視界を曇らせる。
「これは私の本音じゃない」「私はこんなこと思わない」と抵抗しているとそれは溢れ出て、見えない毒となって相手を攻撃して傷つける。相手には伝わる。
「ああこの人、本当は全然祝福してくれてないんだな。喜んでくれてないな」

大事なことは、多分。
「魔」が差さないような観音様のような人間になること
ではない。

「ああ、魔が差してる。私の中には、毒がある」
と自覚することなんじゃないかと思う。

認めるのは、本当に勇気がいる。でも、素直に口にしてみると
「魔」の行く末は変わる。

「おめでとう。すごく羨ましいなあ」
「おめでとう!でも先を越されて悔しい気持ちもある」

正直に思いのままを伝えると、ふっと刺した魔は、ふっと刺した「魔」のまま、スッと消える。

その言葉の文字のどこにも「悪気」がなくても、それを発する人の心に「魔」があれば、それは悪気に育つのだ。
だから、自分が何かを言ってどうやら誰かを傷つけたらしいと察した時、
「悪気はない」と言い訳して、さも相手を「繊細さん」のように扱う前に
自分の魔を認めれば、生きている世界も変わるんじゃないだろうか。

かつて、「いい子」だった私の中には「魔」がいっぱい育っていて、同じような「魔」を持っている人もたくさん引き寄せたし、虐められたりもした。

今も私には「魔」の芽はあるけど、それに正直になった分だけ、幸せ。






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