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個人へ帰結する戦争(ネタバレ含む感想)

 ダンケルクはダイナモ作戦を舞台にした実話を交えた映画だ。フランスのダンケルクでドイツ軍に追い詰められ孤立した連合軍大規模撤退作戦の英国側コードネームが、ダイナモ作戦である。

 しかし、この映画の中では「ダイナモ作戦」といった単語等は出てこない。この映画の中でダンケルクの戦いで英国軍が孤立したことは冒頭の「降伏せよ!」というドイツ軍が戦闘機からばら撒くチラシぐらいでしか説明されず、基本的に登場人物たちの台詞もかなり少ない。「ダイナモ作戦」という舞台に観客を集中させるため、余計な情報を省き、かなりシンプルな造りをしている。ちなみに私はこれが製作側の観客への信頼を表しているのが感じられて結構好きだ。

 そういう訳で、登場人物たちの背景もあまり語られず、家族構成や背景がある程度分かるのは「海」パートの登場人物ぐらいだ。この映画では主人公というのは特に決まっておらず(強いて言うならトミーだが)、3つのパートの主要人物たちに焦点を当てた群像劇になっている。ダンケルクに取り残され救助を待つ兵士の1人であるトミーとギブソンの「陸」での1週間と、その救助へ向かう民間船の船乗りドーソン親子と手伝いのジョージ青年の「海」での1日、同じく救助に向かう戦闘機の飛行機乗りであるファリアとコリンズの「空」での1時間が並行して進んでいく。

 登場人物たちの背景が特に分からないからこそ、彼らの心情に思いを馳せるというよりも彼らが置かれている状況への恐怖が勝る。この映画の中で出てくる場面というのは海や空、海岸ばかりであり、本来であれば開放感のある画になるものばかりだ。しかし、劇中でそのように思うことはなく、ずっと緊迫感と閉塞感が付き纏う。それは一重にあの秒針の音を使った音楽と演出によるものだろう。特にクライマックスでの船が爆撃され、流出した油のために炎上した海を泳ぐ兵士たちのシーンの恐ろしさたるや。

 それほど恐ろしい状況が続いた後に現れる救助へ来てくれた軍人でもない民間船たちや敵の戦闘機を撃ち落とす味方のスピットファイアは大きな希望に観客の目にも映る。最後には民間船の活躍で救助され、市民たちの帰還を喜ぶ声を聞きながらトミーが新聞に書かれたチャーチルの国民を鼓舞する「我々は決して降伏することはない」という演説を読み上げる。そして、その演説に合わせ、演説を表すかのようにドイツ軍の捕虜となったファリアと燃え盛るスピットファイアが映る。正に高揚感に溢れるラストだ。

 しかし、この映画はその場面をラストシーンにはしなかった。ラストシーンに選んだのは、トミーが周りの高揚に置いてきぼりにされて物鬱げに新聞を眺める場面だ。これはそれまでにあった高揚感に水を差すように映るだろう。だが、このラストシーンがあるからこそ私はこの映画が好きだ。
 正直、それまでの地獄の様な時間を過ごしてきた者にとって「我々は決して降伏することはない」という演説が何だというのだろうか。それはまた戦場に行かなくてはならないということに他ならず、やっと逃げてきた場所に高揚感なんて彼らは抱かないだろう。兵士個人にとって、そんな別の場所で会議だけをしている首相の力強い言葉は薄ら寒いものだ。
 私もそれまでのシーンで高揚感を覚えていたからこそ、ラストに映るトミーの姿にハッとさせられる。戦争映画というジャンルは悲惨さを勿論映してはいるが、それと同じくらい「高揚感」を与えやすい。特に、実在した人物を主人公に置いてその人物をヒーロー的に描いている場合だ。しかし、今回の映画はそうではない。登場人物たちの背景はあまり無く、ただ戦場に居合わせた一兵士で、誰にでも重ねられる人物だ。
 その兵士は私の友人や恋人、はたまた私自身かもしれない。そうであったとき、私は「高揚感」を抱けるだろうか。いや、きっとトミーと同じような表情になるだろう。

 このラストシーンは戦争映画に対しての疑問を投げかけているように感じた。戦争映画は楽しむということに疑問を持ちながら観る段階に入ったのだろう。そういう意味で、ダンケルクは新しい時代の戦争映画の幕開けになった作品ではないだろうか。

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