悲しみ権
「世の中にはもっとかわいそうな人がいるのよ」
同じようなセリフを、何度となく言われてきた。いや、実際に何度も言われたわけでは無い。自分の頭の中で、何度となく繰り返しつぶやいた言葉である。
自分が悲しみに暮れようとしているときに、水を差すかのように。
世の中には戦争で家族を失った人もいれば、重い病気で寝たきりの人、いくら努力しても報われない人など、たくさんの「かわいそうな人」であふれている。
だから、大したことでもないのに悲しそうにするだなんて、そんなことは許されない。自分の中に、そんな思想が思い浮かんでしまう。
そんな毎日を過ごしている、最中のこと。
「悲しみに自由を...?」
馴染みのない政党の名前と、そのキャッチフレーズを、近頃よく耳にする。「悲しみを自由に感じられる国民の党」、略して悲自国党(ひじこくとう)だ。
誰もが誰かの悲しみに縛られることなく、人それぞれの悲しみによって、ただその人の悲しみを味わえる世の中にするということ「だけ」が、彼ら悲自国党のマニフェスト。
これまでに聞いたこともない政党だったし、なんだか少し危なっかしい一面も報道されていて、散々迷ったけど、私の意志は固い。
「この政党なら、私の理想の社会に近づけてくれる」
そう思ったから、託した。清き1票ってやつを。
私以外にも同じように考える人がいたのか、それとも単なる面白がりがたくさんいたのかどうかは知らないけど、悲自国党は、どんどん力を増していっている。
今ではその名前を目に、耳に、しない日はない、というほどの快進撃。
やがて彼らは遂に、国にひとつの提案をした。
「誰もが自由に悲しむことのできる権利、悲しみ権の制定を提案します」
悲しみ権。誰もが自由に悲しむことのできる権利。
誰かの悲しみに縛られることなく、人それぞれの悲しみによって、ただその人の悲しみを味わうことを許す権利。
もしかすると私は、その権利が制定されることを心待ちにしていたのかもしれないし、その逆、制定されることを望んでいなかったかもしれない。
大したことでもないのに悲しそうにするだなんて、そんなことは許されない。そんなふうに考える自分も、確かに居たのだから。
それでも私は、悲しみ権の制定に賛成だった。
国で決めたことなら、遠慮なく自分の悲しみを味わうことができる、と、そう思ったから。
悲しみ権の制定に対しても、世の中が悲自国党を支援する声は大きかった。
「この勢いなら、間違いなく悲しみ権が確立されるー」
誰もがそう思っていたに違いなかった。
されど、そうはならなかった。
国は、「誰もが自由に悲しむことのできる権利は、既に確立されている」と主張した。すでにある権利を、わざわざ取り決める必要は無い。
みんな気づかなかった。本当は初めから、何にどう悲しもうが、どんな感情を抱こうが、個人の自由だった。
誰もが気づかないうちに、悲しみに一定の基準を設け、その基準と自分の悲しみを比較し、「この程度で悲しんでいてはならない」なんて、自分の中で自己完結していただけ。
悲しんでよい、と許すのが恐かったから、「自由に悲しんでいいという決まり」にすがりたかっただけ。
誰もが自分の気持ちに対して、いや、自分の人生に対して無責任だったから。空を飛べるほどの自由な翼を持っているのに、そのことに気づかないひな鳥のように。
この一件で誰もが思い知った。
初めから、私たちは自由だったんだ、と。
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