おぼんぼんぼぼん
「故人の墓参りは、何のために?」
ふと、自分の中に疑問がわいた。
お墓には昔から、何かしらのタイミングで行っている。
「今日は誰々の命日だから」
と親に言われたタイミングであったり、毎年のお盆のタイミングであったり。
昔からちょっとした習慣のようにして行っているので、「そこにどんな目的があるのか?」なんて考えたこともなかった。
しかし、ただ何気なく行動してるのでは、人生の充実度が下がってしまう!・・・などと、この頃は考えているのだ。
だから、こうやってお盆にお墓に行くことも、きっと自分なりの意味を見出せるはずだ。
そんな考えから、お墓参りの意味を考えてみた。
もちろん個人の、個人による、個人のための考えである。
よく、「故人に感謝しよう」とか「ご先祖様に感謝しよう」とか、大切なことのように耳にする。
確かに大切なことのように感じるが、なぜそれが大切なのだろうか?
まず、感謝することは大事なことだ。
感謝はする側にもされる側にも幸福感や充実をもたらしてくれる。何かに感謝をすることは、人生を充実させるために有益だ。
でも、それだけじゃお墓参りが大切である理由として、私的にはちょっと弱い。
・・・とか言ったら、伝統的な儀式を大事にする人からすごく批判されそうで怖い。
まあ、疑問を持って考えることは大事だと思うので、そこは偽らずに素直な意見を述べたい。
少し掘り下げてみよう。
感謝することは、「ありがとう」と思うことだと言える。
「ありがとう」とは「有難い」、つまりは「あって当たり前ではない」ということだと思う。
それでは、故人という存在は、有難いことなのか?
故人がいることは、ある意味、当たり前のことかもしれない。なぜなら、故人というか、先祖がいることによって、自分が存在しているのだから。
故人が居なかったら、故人について今ここで考えている自分自身は存在しない。
当たり前とかそうじゃないとか、議論の余地もない。
議論する自分も、多分、存在していない。
あれ?ということは、今は逆に、あり得ないくらいのことが起こっているとも言えやしないだろうか?
故人が居なかったら、自分という存在は、存在していない・・・。
つまり、私がこうやって、故人について云々考えたり、人としての酸いも甘いも存分に味わえている世界線そのものが存在しない。
自分が自分として存在する確率は、そうでない世界線が選ばれる確率より相当に低いはずだ。
そうだ、今、自分が居るのは、故人によって、そしてその他の無数の因果が複雑に絡まりあって起こっている「奇跡」なのだ。
有って当たり前ではないことが、今ここで起きている。
だから故人という存在はありがたい。
故人が居なかったら、私は存在していないのだ。
またひとつ、個人的に意味のあることが増えた。
それと同時に、世界線云々といった小難しい疑問が増えてしまった。やばい、訳わからん。
それでは、故人という存在は、有難いことなのか?
故人がいることは、ある意味、当たり前のことかもしれない。なぜなら、故人というか、先祖がいることによって、自分が存在しているのだから。
故人が居なかったら、故人について今ここで考えている自分自身は存在しない。
当たり前とかそうじゃないとか、議論の余地もない。
議論する自分も、多分、存在していない。
あれ?ということは、今は逆に、あり得ないくらいのことが起こっているとも言えやしないだろうか?
この記事の↑のあたり、訳わからん。
いや、訳わからんこともないけども。
なんだかこんがらがってしまう。
とりあえず、今後はより一層、故人への感謝を強めたいと思う。
おわり
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