サラダ・ボウルの惨劇
野菜室の穏やかな暗闇。彼らは寝息もたてず、安らかに眠る。
遥かなる故郷の畑の土の匂い。農家が与えてくれる美味しい肥料。穏やかな夢の中。誰もがずっと、この夢が続くことを疑いもしなかっただろう。
ぱかっ。暗闇の中、突然に扉が開いた。同時に、台所の鈍い光が野菜室に差し込む。更には女の美しい手が伸びてくる。
「ん、なんだ?」
寝ぼけ眼のキャベツを襲ったのは、何かに掴まれる感覚。それはいつの日か、スーパーの野菜売り場で味わった感覚と同じものだ。ただひとつ違うのは、その手に込められた、殺意。
「今夜はどうさばこうかな?」
キャベツを掴んだまま、女はルンルン気分でまな板へ向かう。
「う、うわあああ」
冷汗が止まらないまま、キャベツはまな板に押し付けられた。
「このキャベツ、やけに水滴が多いなあ」
女は不思議に思うも、特に気にしない様子でキャベツにその刃を向ける。
「キャベツが捕まったぞー」
野菜室は騒然としている。
「やばいやばいやばい」
「次は誰が」
ざわざわと騒がしい野菜室に、再び女の手が伸びる。
「ああああ」
「キュウリーっ」
女は緑の棒状の野菜を掴み、シンクへと向かう。
「あっ、あれは」
女の手の中で、キュウリは戦慄した。キュウリの目に飛び込んだのは、先ほどまで安らかに眠っていたはずのキャベツが、金属製のボウルの中でものの見事にバラバラにされている光景だった。まるで原型をとどめていない。
「お、俺は栄養素少ないぞー」
少しでも切るのを躊躇してくれることを願い、水流で洗われながらも必死に叫ぶ。
「キュウリって実は栄養たっぷりなのよね」
あいも変わらず、女は楽しそうに料理に勤しんでいる。キュウリの叫びは届かない。
カリウムはナスのおよそ1.4倍、ビタミンKがレタスと同程度、ビタミンCがトマトの約1.26倍。この数字を聞いて、キュウリに栄養価が足りないなんて言う愚か者はいないはずだ。
「ちくしょう、キュウリまでやられちまった」
野菜室ではみんなが戦々恐々としている。
「大丈夫、まだ僕たちは大丈夫だ」
誰かが言った。その言葉は、誰かを励ますというより、恐怖から必死で目を背けようとしているようなニュアンスであった。
「そうだよな、まだきっと、なんとかなるはずだ」
表面上だけでも活気を取り戻す野菜たち。しかし、その希望的観測はいともたやすく崩れ去る。
三度、冷蔵庫の扉が開かれる。
「さあて、次はどれにしようかなあ」
女の手が掴んだのは、赤い球体であった。
「トマトーっ」
「う、うわあああ、助けてくれえ」
例のごとく、水流で洗われる、赤い球体。
(考えろ、考えるんだ。まだできることはきっとある)
水流で洗われるトマトの姿は、滝に打たれて修行に励む修行僧さながらだ。
とん。
女の手が、トマトをまな板の上にセットした。
(そうだ、思いきり野菜汁を跳ばせば、女も切るのをためらってくれるはずだ)
そうすれば他の野菜たちも助かる。そんな天啓のごときアイデアがトマトの心中に舞い降りる。だがー
すっ、すっ、すっ、すっ。
「えっ」
トマトは切られた。
絶命の間際に、野菜汁を跳ばすことすら許されないまま。
「白い線を避けて切っていくことで、汁を跳ばさずにトマトを切ることができるんだよね」
そういえば、お母さんに昔教わったなあ。女は昔の記憶を懐かしんだ。
「そんな…」
トマトは薄れゆく意識の中で、走馬灯のごとく故郷の畑の土の温もりを思い出していた。
「うわああああ」
その後も、ボウルの中に次々と野菜たちが放り込まれていく。
「さあて、仕上げにこれをたっぷりかけて、と」
女は調味料の棚からオリーブオイルを取り出すと、勢いよく野菜たちにかけたくった。
「なんだ、ぬとぬとする」
まだ息のあった野菜たちも、そのぬとぬとの元凶であるオリーブオイルに呼吸を止められた。
「かんせーい」
女は家族を食卓に呼びつけ、ディナーの準備を整えた。
「いただきます」
いちばん最初にサラダに手を付けたのは、小学生の娘だった。
「んー、うまい」
素直な娘の言葉に、思わず「でしょー」と返す女。
「お母さん、サラダがいちばん得意料理なのよ」
自慢げに言うと、自らもサラダを食す。
「ああ、確かに絶品だ」
このオリーブオイルが決め手だな、と、知った顔で男が言った。
「本当、生きているみたいにみずみずしいよな」
「あら、そもそも野菜は生き物だよ?」
まあ、この野菜たちは生き物「だった」と言った方が正しいのかもしれないけどね。そう小さな声で女がつぶやいたのを、食卓の誰も聞いていやしなかった。
サラダボウルの野菜は、食卓の照明を浴びて、キラキラと輝いている。
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