水族館デート前編【短編小説】

 冬の日の割に、暖かい。今日の天気は曇りだろう。外を見なくても分かる。起きた瞬間に、気温で天気が分かるというのが、僕の特殊能力だ。といっても、曇っていたら空気中の熱がこもって、気温が上がることくらい、多くの人が知っていそうなものだ。

 カーテンを開けると、案の定曇りだった。気象予報士にでもなろうかな、という考えがふとよぎった。この程度でなれるものじゃないだろ、と、心の中で自分にツッコミを入れて笑った。

 この曇り空の中、飲み会で知り合った女の子と、水族館へ行く。年齢は20歳くらいだろうか。女友だちが連れてきた子だった。ぱっと見は大人しそうな雰囲気だったが、彼女自身の話によると、活発な女の子である様子だ。

 飲み会の中で、よく出かける場所の話になった。

 「私は動物園とか、植物園とか、割とそういう場所が好きなんだよね」

 彼女は自然を好んでいるようだった。動植物が好きな僕は、間髪入れずに僕も好きです、と発言した。食いつきすぎだろ、と友人らに笑われたが、彼女は嬉しそうに微笑んで言った。

 「じゃあ、今度、一緒に水族館でもどうですか?」


※※※


 約束の場所。水族館前のモニュメントの前で、彼女を待っている。早く会いたいという気持ちが抑えられず、約束の1時間も前に到着してしまった。近くのコンビニで立ち読みをしたり、落ち着きなくスマホをいじりながらうろうろして時間をつぶした。やっと、あと10分で彼女と会える。

 おはよう。今日はよろしくね、という今朝がた届いた彼女からのメッセージを、何度も読み返す。嬉しさに笑顔がこらえきれず、にやけてしまう。道行く人の視線が痛い気がしたが、これから予想できる楽しさに比べればどうでもよいことだ。

 「はやっ。いつから待ってたの?」

 スマホに目を落としてにやけている僕は、背後からの声に驚いてしまった。わっ、と情けない声が出てしまう。

 「ふふふ、なに、私からのLINEを見て、妄想でもしてた?」

 図星を突いた彼女の笑顔は、飲み会で出会ったときに焼き付けたイメージの倍以上は輝いて見えた。恥ずかしさを振り払うように、行こうか、と明るく言って、水族館へ向かった。1時間前から待っていただなんて、恥ずかしくて言えなかった。


※※※


 水族館の入り口は、まるで海中への入り口だ。エスカレーターの通る通路では、壁が青い海のようになっていて、非日常的な世界へと僕らをいざなう。

 幻想的な音楽が流れ、ゆったりとした海流の流れを彷彿させる。地面を歩いているのではなく、海の中を漂っているような感覚に包まれていく。

 エスカレーターを上り終えると、目の前いっぱいに、大きな水槽が広がった。水槽の中では、クジラみたいに大きなジンベエザメを筆頭に、豊富な種類の魚が泳いでいた。

 うっかり彼女の存在を忘れてしまうくらい、僕は魚たちに夢中になっていた。

 「へえ、私より魚に夢中になるなんて。妬いちゃうなあ」

 彼女の言葉にはっとさせられた。そうだ、これはデートなのだ。彼女の存在を忘れてはいけない。慌てて僕は、焼けてる君で魚を焼いたら美味しいかな、と、ギャグを言った。

 「ちょっと。君、ギャグセンスなさ過ぎだから!」

 ナンセンス、と言いつつも、彼女は笑ってくれていた。面白くなさ過ぎて笑う、ということもあるのか、と、僕はやや感心した。とはいえ、そういう彼女も魚に見惚れだした。

 「確かにきれいだよね。この水槽の中のみんな、私たちと同じように生きているんだって。考えただけでも不思議だな」

 僕も同じ意見を抱いたのだが、僕もそう思う、なんて迎合しているみたいでなんとなく言えなかった。


※※※


 海底のように、うす暗い水族館の中を進んでいく。しばらく歩いたところで、彼女はクラゲの水槽の前で立ち止った。

 「クラゲって、海を漂っているだけに見えるけど、実はちゃんと泳いでるんだよ。私、人の人生もクラゲみたいなもんじゃないかと思うんだ」

 クラゲの水槽を見つめながら、彼女は言う。彼女の横顔を、水槽の青い光がぼんやりと照らしていて、やけに神秘的だ。

 「私たち人間もさ、運命っていう大海の中で、漂っているだけのように感じてしまうときがある。だけど、実は自分たちの意志で、行くべき道を進んでいる」

 「誰だってそうだと思うんだ。ただただ流れて生きている人なんていやしない。誰しもが、逃れられない選択の連続の中で生きている」

 彼女が妙に哲学的な話をするので、僕はついつい聞き入ってしまった。まるでそんなことを考える人だとは思っていなかったのだ。

 彼女は、その青白く照らされた横顔に見入っている僕に気づいた。

 「つい話しちゃった。クラゲの水槽の前で、こんな話をする女の子、珍しいと思わない?」

 彼女はついつい話過ぎたのが恥ずかしかったのか、青白かった横顔が、少し赤く色づいた。僕はこのとき、もっとこの子のことが知りたい、と思ってしまっていて、もう後には引けないような気持ちだった。

 珍しいのかもね。だから良いんじゃないかな?とひとこえかけると、彼女は嬉しさを隠すようにうつむき、歩き出していった。


※※※


 出口を抜けると、一気に現実に放り出された気分だ。異世界ものの物語で、異世界から現実世界に戻る主人公は、こんな気持ちだろうか。

 今回の水族館デートで最も見入ってしまったのは、ダイオウグソクムシの水槽だった。深海の海底に、あのようなダンゴムシの化け物が存在しているなんて、あまりにファンタジーでぞくぞくする。

 こういう時に普通の人だったら、イルカのショーが楽しかった、とか言うのだろうか。確かに楽しかったのだが、ダイオウグソクムシの強烈なインパクトが、後半のイルカのショーの思い出を薄めてしまっている。

 彼女はどうだろう。きっとイルカのショーがいちばんの思い出に違いない。

 「しっかし、楽しかったねえ。私、ダイオウグソクムシがいちばん印象に残ったなあ」

 僕は思わず、彼女を見た。

 「あんなのがうごめいてるなんて、深海の海底はいったいどうなってるんだろうね。ジブリ作品みたいな世界が広がっているのかなあ」

 ダイオウグソクムシが印象に残っただなんて、君も変わってるね、と告げると、

 「君も印象に残ったでしょ?ダイオウグソクムシ」

 まるで心を読んだかのような名推理に、なぜ分かったのか、と驚きとともにたずねる。

 「だって君、ダイオウグソクムシの前で、微動だにしないんだもん。きっとこういうの好きなんだろうな、って思っただけ」

 「君って、分かりやすいタイプなんだねえ」

 と、彼女はけらけらと笑っている。どうやら僕は、正直者らしい。だけど、本当のことを言うと、今日もっとも印象に残ったのは、ダイオウグソクムシではないのだ。


※※※


 彼女をバス停まで送る。昼過ぎまで空を覆っていた雲は、すっかり散り散りになってしまった。夕暮れ時。一日の終わりは夕方ではないのに、世界が終わってしまうのではないかと不安げになるのは、僕ら人間の悪い癖だと思う。

 バスを待っていると、彼女はおもむろにカバンから本を取り出した。

 「君、哲学はすき?」

 彼女から渡されたのは、エーリッヒ・フロムの書いた、愛するということ、という本だった。タイトルは通販サイトで見たことがあるが、現物を目にするのは初めてだった。

 「その顔だと、興味ないってことはなさそうだね。良かった」

 彼女は嬉しそうに、本を突き出してきた。どうやら読めということのようだ。

 「一昔前は、幸せの概念は人それぞれだ、なんて言われてたけど、人がどう生きれば幸福か、なんて、今は科学的にある程度の答えが出ているんだよ。」

 「それでも私は、悩みに悩んで、幸せについて考えてきた人たちの言葉を欲しちゃうんだよね」

 照れているのか、夕日で照らされているだけなのか分からなかったが、彼女の顔は真っ赤に染まっている。自分の大切な思いを人に話すとき、顔を赤く染める人は、正直者なのだという。

 「じゃあ、また今度ね。次に会う時までに、ちゃんと読んどいてよ」

 バスに乗り込みながら、彼女は言い放った。

 バスの窓越しに見える彼女に手を振る。バスが遠くなっていく。片側が夕日に照らされたバスが、ゆっくりと小さくなっていった。

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