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ひときれのパン

 西田史弥(にしだふみや)は算段をつけた。
 ことの発端は、数日前の恋人からのひとことであった。
「ねえ、美味しいもの食べたい。それもとびっきりのやつを」
 眠る前のベッド。五十嵐小夜子(いがらしさやこ)は隣でまどろむ史弥の腕に絡みながらささやく。
 美味しいもの食べたい。なんて抽象的でアバウトなお願いだろう。
 そのお願いに答えるのは、「何が食べたい?」と聞いて「何でもいいよ」と返ってきた時と同等、いや、むしろそれ以上の難易度が予想される。なぜなら「美味しいもの」が食べたい、という小夜子の意思だけは明確に表現されているからだ。
 つまり、美味しいもの以外は食べたくないのである。
「そうだな、とびっきりのものを考えておくよ」
 とりあえず返答すると、小夜子は「楽しみにしてる」と笑みを浮かべ、そのまま眠りについた。
「美味しいもの、かあ」
 朝目覚めたら思いついているといいな。そんな希望を抱きながら、史弥は目を閉じる。
 まどろみにかすむ意識の中、遠い昔に映画の中で見たことのある美味しそうな食べ物が、ふと頭に浮かんだ。

※※※

 木材の心地よい香りと、明るい朝の光。
 ログハウスのキッチンにて、史弥は備え付けのフライパンで目玉焼きを焼いている。
「よく眠れた?」
 顔はフライパンの卵に向けたまま、階段からコツ、コツ、と聞こえてくる足音に向かって言う。
「おかげさまでぐっすりと」
 ふぁふぁというあくび混じりの応答があった。階段から一階の床に降り立った小夜子は昨夜とほぼ変わらない格好。下着姿にパーカーを羽織っているだけ。
 ふたりは旅の途中である。週末の休みを使った一泊二日の小旅行で、今日はその二日目。
 昨日から、ログハウス付きのテーマパークに訪れている。なにやら特別なサービスで来園者を驚かせるのだとか。通の人間からは評判がいいらしい。
「昨夜は驚いた?」
 フライパンを手に持ちながら史弥が言う。
「うん。びっくりしちゃった」
 昨夜のできごとを思い出し、小夜子が笑う。

 昨日の夜。施設内のレストランで食事をしていると、店内の舞台上で、突然予告なしの演劇が始まった。
「わあ、すごい」
 小夜子が思わず机上の料理から目を離して夢中になってしまうほど、愉快な演劇であった。

「特別なサービスって、あれのことだったのかあ」
 史弥も昨夜のできごとを思い出し、感心している様子。
「ふみくんも知らなかったの?」
「ああ。知らされてなかった」
 そこが通の人間から評判である理由なんだろうね。と、言ったところで突然、空いている左手でポケットから携帯を取り出した。どうやら誰かから電話らしい。
「おはようございます。はい、大丈夫です。お願いします」
 短い通話を切り、再びフライパンに目を向ける。
「会社の人?」
「取引先さ」
 史弥はそう言うと、フライパンから目を離し、ちらりと小夜子を見る。
「ところで小夜子」
「ん?」
 史弥はもう一度、ちらりと小夜子に目線を向ける。
「着替えたほうがいいと思う。朝食を終えたら、すぐに出発するよ」
「別にいいじゃん」
「うっかりその姿のまま外に出ちゃったらどうするんだい?」
「別にいいもん」
「君は良くても僕はよくないよ」
「別にいいじゃん、減るもんじゃないし」
 小夜子は頑として譲らない。
「そういうことじゃなくて」
「あ、なに?他の男に見られるのが嫌ってこと?」
 小夜子はにやついていたずらな表情を浮かべる。
「そうじゃなくて、一緒にいる僕が白い目で見られるってこと」
 史弥が無理やり冷淡な口調になって言う。
 やだー、ふみくん、かわいいー。と、からかう小夜子。
「いいからいいから。5分くらいでちゃちゃっと着替えてきなよ。朝ご飯できちゃうから」
「はーい」
 小夜子はしぶしぶ、二階へと続く階段に足を踏み出した。

 外出用の服に着替えながら、小夜子は内心、がっかりしていた。
 昨夜の料理はおいしかった。ショーも素晴らしかった。でもそれは、食べ慣れた実家での豪華な料理と何ら変わりない美味しさであり、あくまで普通の「美味しい」という基準を満たすものでしかなかった。
 ショーだって面白かったし、史弥のことは好きだけれど、この程度なのだろうか。別にこれだからこの人とは一緒になれない、だなんて思うほどのことでもないのかもしれないけど。
 そこまで求めるのは贅沢過ぎるのかなあ。
 一度片方に下がりきった天秤が、再び均衡を保つ。小夜子の心境は、そんな状況にあった。

「選ばれるのではなく、自分で選ぶことが娘の身上だ」
 史弥は交際の挨拶の際に、彼女の父親からそんな助言をもらっている。
 小夜子はとある映画制作会社の社長令嬢。史弥は脚本家。映画製作の仕事の関係でふたりは知り合い、意気投合、現在に至る。
「彼女の気持ちが決まっているのなら、彼女の方から合図があるだろう」
 プロポーズは男性からされるのが嬉しい。そんな女性もいるだろうけど、小夜子は違う。何事も、自分自身で選び取る。無論、寄り添う相手も。
 なぜ、彼女の父親が自分にアドバイスをくれたのか、史弥には分からない。
 もしかしたら、自分を小夜子の相手として期待してのことだったのかもしれない。
 そんな想像をしては、まさかね、と思い直していた。
 小夜子は小さい頃から美味しいものを食べ慣れている。口では美味しいと言っていても、本当に美味しいと思っているかどうか分からない。
 だから飛び切り美味しいものを食べさせなくてはならない。思わず美味しいと口から漏れてしまうような。
 食べ物だけでなく、それがより美味しく感じられるようなシチュエーションで。
「美味しいものが食べたい」
 これは、小夜子から与えられた試験だ。
 昨夜のショーも食事も、小夜子が自分を選んでくれる決定的な一打になっていないということは、史弥にも分かっていた。
 それでも彼は、冷静だった。

 小夜子が二階に上がってから、五分が経過しようとしていた。
「小夜子、準備できた?」
 史弥が二階に向かって声を放つ。
「できたよー」
 朝食前なのに、やけに急かすよなあ、と思いつつ、小夜子は言葉を返す。
 小夜子が階段を降り、一階の床に足を付ける。
 それと同時に玄関の扉を叩く音と、おはようございます。本日のご案内に参りました。という、知らない男の声。
「なんか、案内とかあるんだね」
 小夜子の疑問に、さあ?と肩をすくめる史弥。
「とりあえず開けてみよう」
 史弥がドアノブに手をかけ、回した瞬間。
「うおおっ」
 扉が勢いよく開き、史弥は後方に倒れた。
 開いた扉から、三人の黒スーツ姿の男たちが現れた。
 小夜子は唖然として動けない。
「抵抗はせずに大人しく捕まれ」
 黒スーツたちはそう言いながら部屋に入ろうとしてきた。
「小夜子、逃げるぞ」
「う、うん」
 すぐさま立ち上がった史弥は、黒スーツから目を離さないまま小夜子に合図し、開けたままだった窓から外へ出ようと試みた。
「待て、大人しくしろ」
 黒スーツが追ってくる。
「小夜子、先に逃げろ」
 史弥は黒スーツを足止めしつつ、小夜子に脱出を促した。小夜子が窓から外へ飛び降りる。
「いい仕事してるなあ」
 史弥は黒スーツたちに向かって告げ、小夜子が遠くへ走っていくのを確認すると、自らも窓から外へ飛び降りた。

※※※

「なんとか撒いたね」
 園内にある洞窟の中。息を切らしながら、ふたりは足を止めた。
「なんなの、あの、黒スーツの男たちは?」
 はあ、はあと肩で息をしながら小夜子が史弥に問う。
「分からない。あんなの聞いてないぞ」
「この一帯、人さらいでも出るわけ?」
「小夜子、狙われるようなことでもした?」
「心当たり、無いけど」
「それとも先祖が天空の城の王様で、小夜子がその末裔だとか?」
「心当たり、無いけど。なんで天空の城が出てくるの?一応、ご存じの通り親は会社の社長だけど」
「いやあ、ま、無事に逃げ切れたことだし。とりあえず、休憩しよう」
 ふたりは腰を下ろし、洞窟の壁に寄り掛かった。壁はひんやりとしていて、ほてった体を心地よく冷やしてくれた。
 史弥は持ってきたリュックの中をごそごそと漁った。取り出したのは、丁寧にラッピングされたふたつのパンだった。
 パンの上には、今朝、フライパンで焼いていた目玉焼きが乗っている。
「一緒に食べよう」
 史弥の準備の良さに小夜子は驚いた。あの逃走劇の中、パンを持ってくる余裕があったとは。
「ふみくん、いつラッピングしたの?ていうか、今から食べる予定の朝食をわざわざラッピングする?」
 まあ、走りまくったおかげでおなか空いちゃったから、いいのだけれどー。そう言って小夜子は、史弥の手からパンを受け取った。
 そしてラッピングを剥ぎ、大きく口を広げ、パンにかぶりつく。
 史弥はその様子を固唾をのんで見守る。
「美味しい」
 小夜子の言葉が、驚嘆と笑顔とともに洞窟に響いた。
 一口目を飲み込むと、彼女は間をおいて続けた。
「なんだか昔見たジブリ映画の中にいるみたい」
 昔見たジブリ映画。
 口からそう漏らした途端、小夜子の動きが止まった。
 天空の城。
 王の末裔。
 隣にいる史弥に顔を向ける。
「ねえ、ふみー」
 隣の史弥の方を向いた途端、小夜子はすべてに納得した。
 史弥は笑いをこらえるように自らの口元を手で押さえている。
「もー、そういうこと?」
 呆れつつも小夜子は笑う。
「そういうこと、ってどういうこと?」
 しらを切る史弥の背中を、ばしばしと叩く。
「全部あなたのシナリオ通りってわけね?」
「オリジナリティのある展開だったでしょ?」
 史弥が自慢げに言う。
「他人の作品を模倣しておいて、なにがオリジナリティなの?」
「ああ、それは確かに」
「こんなことして。宮崎駿監督に怒られるよ?」
「いやあ、あの人なら作品のオマージュくらい許してくれるでしょう」
「まったくもう」
 小夜子はあきれ顔。なおかつ、笑顔だ。
 続けて小夜子は史弥を問い詰める。
「あれはミスリード?昨夜のショー。今日のサービスこそ本チャンだっていうのをカモフラージュするためのモノね。本当は知ってたんでしょ?」
「何のことだか」
「着替えを急かしたのは運営と電話で打ち合わせた時間に間に合わせるため?」
「勘弁してよ、名探偵さん」
 史弥は困り顔で笑う。
「ふふふ。まっ、面白い話だった。いい脚本じゃない?うちで採用」
「ラピュタ王の末裔に褒められるなんて、身に余る光栄だな」
 洞窟の中、ふたりの笑い声が響く。
「うん、ほんと、面白かった。賞を与えたっていいくらい」
「どんな賞?」
「私の隣にずっと居てもいいで賞」
 そういって小夜子はポーチバッグから小さな赤い箱を取り出した。開かれた箱の中には、煌めく宝石が。
「これが飛行石か」
 驚いた表情で史弥が言った。
「分かってると思うけど、一応言っとくね。これ、婚約指輪だから。これを指にはめたって、空は飛べないよ?」
 微笑みながら小夜子が言う。
「君といっしょなら、空を飛べなくたって、地獄に落ちたって構わないさ」
「嬉しいけど、私は地獄は勘弁かな?」
「ふふふ。それにしても小夜子、やっぱり君の方が一枚上手だったね」
 そうしてふたりは口づけを交わした。

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