追悼

 小さい頃は奇天烈な姿の虫にハマっていた。
 王道を行くカブトムシや、クワガタといった虫よりも、変わった姿の虫に興味が湧いた。
 中でも寿命が長い虫が好きだった。なぜだろう?なぜだったのだろう。その頃の私には、その理由れがなぜかなんて知るつもりなど毛頭ない。



 やがて可愛らしいキャラクターのおもちゃや、煌めく鉱物などにも興味が湧いた。
 彼らは寿命の長い虫よりもさらに寿命が長く、その上、私の頭の想像の仲では自由に動き回ってくれた。
 その点では寿命の長い虫よりも好きだったかもしれない。寿命の長さがポイントなのだろうか?



 対して人にはあまり好奇心が働かなかった。人間は不安定で、私のことをいじめてくる者もあらば、妙な視線を浴びせてくる者もいるからだ。
 ときおり好意的な関係になることがあっても、それはいっときのことで、寿命の長い虫や、可愛らしいおもちゃのように、ずっと心の中に住み着いてくれることは無い。
 心の中の虫やおもちゃたちは、みんな仲良く平和に暮らしているけれど、人間たちはみんな好き勝手だし、不安定だ。



 生あるものには必ずこの世を去る日が来る。
 大好きな虫もおもちゃも、久遠の時をまたぐ鉱物も、もちろん人間も、それは変わらない。
 寿命があったり、壊れたり、呼吸が止まったり。
 私はそれが嫌だった。いや、今でもきっと嫌なのだ。
 愛したモノがなんであろうと、それがこの世から無くなってしまったとき、自分の身体が深くえぐられるような感覚になってしまうから。
 自分の愛した何かがこの世から消えてしまうとき、私はどんな顔をしていいか分からない。
「自分に悲しむ資格などあるのだろうか」
「自分が殺したのと同じではないだろうか」
 思い悩み、苦しむ権利すらない。私は、私が愛でた虫や、植物や、鉱物や、猫や、人が、死の苦しみを前にしたときに、何かしてやれただろうか?
 まったくもってNOだ。
 何かしてやろうと思うことすらしなかった。
 自分が愛する対象が、好意を注ぐ対象が、ずっとそこに在ればいいなと、変わらずに在ればいいなと。
 そんな浅はかで能天気な考えだけがそこにあった。
 だから自分には、悼む権利も悲しむ権利も与えられていない。



「深い愛情の裏返しなんだね」
 誰かにこれまでの話をしたとき、そんなふうに言ってくれた人が居た。本当に優しい人だった。私はその人のその言葉で、初めて素直に悲しくなれた。我慢せずに泣くことができた。
 同時にハッとさせられた。
 あの日寿命の長い虫を探していた私は、愛情を注ぎ続けられる何かを探していたのだと。
 卑屈で、疑い深くて、孤独に苛まれる私にも、何かを愛したいという強い想いが備わっているのだと。



 ある日、意味もなく、庭作業の休憩中に、砂で作ったお山の頂上に、線香を刺した。
 過ぎ去りし日々に確かに存在していて、同じ時間に生きた彼らと、過去の私が、白い煙になって昇って行った気がした。

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