【掌編小説】勿忘草
春眠、暁を覚えず。
いつまでも寝ていたくなるような、うららかな朝だった。
けれど僕にはやるべきことがある。
日課のそれを思い出し、身体に活を入れ起き上がる。
小型のじょうろに水を入れ、「おはよう」のあいさつ代わりに水をやる。
君が置いていった、この花に。
君と出会ったのは、高校時代。
学校の花壇に水をやる君の姿に、僕は、秘かな想いを抱いた。
それからというもの、部活に入っていなかった僕は、下心満載で君の所属する園芸部に入部。
それなりの仲になるまでに至った。
——そろそろ、想いを伝えたい
そんなやきもきした気持ちを抱えていた、ある日の昼休み。
図書室に入ると、視界に入ったのは植物図鑑を読んでいる君だった。
集中しているところ悪いとも思ったが、なんとなく、今しかないと思って声をかける。
「やあ」
「……」
没頭しているらしく、返事はない。
僕は君に気付いてほしくて、植物図鑑にのっている花々を指さして言った。
「初恋、あなたしか見えない、とても魅力的……」
呪文のようにつぶやくと、君は驚いた顔で僕を見た。
「よく知っているのね」
「まあね」
僕がつぶやいた謎の呪文は、指さした植物それぞれがもっている花言葉だった。
勉強したきっかけは君だったけれど、いろんな花言葉があることが面白く、いつしか調べるのが趣味になっていた。
「熱心に読書しているところごめんね」
「ふふ、いいの」
そう言って君は、となりの椅子を引き、僕に目くばせをする。
いざなわれるままに席に着く。
「ねえ。せっかくだから、今どんな気持ちなのか教えて?」
君はいたずらを思いついた子供のようにひそやかに笑った。
――もちろん、花言葉でね
その表情は、言外にそう告げていた。
「……」
僕は無言のまま、植物図鑑の一点を指差す。
そこにあったのはミモザの写真だ。
「密やかな恋……? す、好きな人でも、いるの?」
わずかに焦燥の滲む声で君が問う。
僕はむずがゆくなるような気持ちで「こくり」とうなずいた。
「……誰?」
「……目の前に居るよ」
がたん、と椅子が鳴る。君は目を大きく見開いていて、どくん、という音が聞こえてきた気がした。
「……」
君は無言で頬を染めると、ほどなくして僕と同じように図鑑の一点を差した。
そこに載っていたのはヤマブキ。花言葉は――
「……ずっと待っていました……って、え?」
君は僕から植物図鑑を奪うと、羞恥に目を伏せ赤らめた顔を、本の陰にかくした。
両想いに気付いてから、僕らは仲睦まじく交際を続けた。
数年後には大学生になり、同棲を始めた。
ある時、自宅に戻ると、君はリビングで悲しげにたたずんでいた。
「どうしたの?」
問いかけると、君は言葉もなく泣きだした。
目の前の小さな鉢には、枯れたスイートピーが。
「せっかくあなたからもらったのに、ごめんなさい」
君はやっと言葉にしてくれたが、その目は相変わらず潤んでいる。
「ううん。これまで大切にしてくれて、ありがとう」
「うん……」
僕は君の頭をぽんぽんと撫でた。
しかしそれだけでは君の彼氏を名乗れない。
「枯れたスイートピーだけど、しばらく僕に預からせてくれ」
「うん、わかった」
僕は君に悟られないよう、数週間後に向けて準備を開始した。
来たる数週間後、僕は君にプレゼントを贈った。
「はい」
それを渡すと、君の笑顔はひまわりのように花開いた。
「ドライフラワー!」
それは、枯れたスイートピーを乾燥させて作ったものだった。
「嬉しい。すごく嬉しい!」
君は受け取ったドライフラワーを優しいまなざしで見つめた。
僕の大好きな、花を愛でる君の顔だった。
「なんか、花言葉に似合ってる!」
「……あー、たしかにそうかもな」
スイートピーの花言葉は、やさしい思い出。
――この贈り物自体が、私にとって優しい思い出になる
君の言葉にそんなニュアンスが含まれている気がして、僕は少し照れ臭くなった。
いつの間にか、目の前の花と、君の姿が重なって見えていた。
白昼夢は覚め、このリビングでは僕と、君が残したこの花だけが呼吸をしている。
君は別れ際に花を置いていった。
春先の今、この花はちょうど美しく咲いている。
——言われなくたって、忘れることなんてできやしないのにな
君に語り掛けられたかのように、その花言葉を脳裏で反芻する。
——私を忘れないで
淡い青色の勿忘草が、僕を見て哀しげに笑った、気がした。
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