コロナ禍をまとめてみる2|日常と非日常の話

さて、今日も思ったことを記録しておこう。

まず、例のツイッターのコピペ作業。この記事参照。

https://note.com/roppongen/n/nb80cdadbfd77

やっと今日の分まで全部ワードにコピペし終えた。あとは日付ごとに社会の流れを追って、その時に自分がどういうことを思って、それをツイートしたのか、何に共感してそれをリツイートしたのか、場合によってはそれらのツイートによって社会がどのように変わったか、社会にどう影響したか、というようなことを分析してみたい。今日は疲れたのでその作業はやらないこととする。

はい、それで、今日はここ一週間の振り返りをしてみる。本当はフィールドノートなので毎日細かく書いていくべきなのだが、なんといってもやる気が起きたのがここ数日のことなのだ。最初何回かは、その日にしたことではなく、その前のある程度の期間内に起こったこと・気づいたことをざっくりではあるが記録しておこう。記録しないのももったいないのでね。


日常は来なかった。非日常が来た。

前にも書いたが、この春、私は実家を離れて新生活を送ることになった。通常ならば「今日から『これまでとは違う日常』が始まるよ!」とか言って(別に言わなくてもいいけど)、実家暮らしとは別の日常が始まる。実家を出て一人暮らしになったとはいえ、それはあくまでも想定内の日常である。私にもその「これまでとは違う日常」が訪れるはずだった。

だが、私の新生活はコロナ禍とともに始まったと言ってもいいだろう。つまりは、コロナ禍のせいで、これまでの生活と違うとはいえ、ある程度想定内の日常が送れなくなった。その日常は非日常になった。「これまでの日常」と「これからの日常」の境目となるはずだった大学院の入学式は中止。授業もない。先生との面談もオンラインでやるかメールでやりとり。先輩や同期とのご飯会もない。ひたすら家で論文を読んで引きこもる。出かけるときはマスク。コンビニもスーパーもレジにはビニールの幕。レジに並ぶにしても前の人との距離に気を使う。街の人通りも少なく、時々「閉店のお知らせ」が貼られた扉を見かけた。

これは明らかに「これからの日常」の風景ではなかった。非日常でしかなかった/でしかない。ただ、私にはなにもなすすべはない。ただただこの現実を受け止めて生活していくしかない。いくらキャンパスで叫んだところで授業は休講のままだし、いくら前から気になっていたお店の扉を叩いたところでそのお店はもう店仕舞いしてしまったのだ。

こんな非日常に飲み込まれ、私は6畳一間の古びたアパートに押し込められた。ネットを使えば読みたい文献にはある程度アクセスできて、勉強するにはさして問題はなかった。友達ともやりとりはできる。だが、どうも心地よくない。なにしろアパートに押し込められているのだ。しかも誰かに押し込められているわけじゃなくて、得体の知れない何かに「大人しく部屋にいろ」と言われているのだ。もしもね、目出し帽かぶった怖い男に脅されて部屋に押し込められたのなら、怖いだろうけども納得できる気がするんだ。ああ、この部屋にいるしかないのね、と。ただ、どうもそういうわけじゃない。事実、部屋の鍵は日常が存在した世界と同じく部屋の内側から鍵をかけるし、だから自由に出入りはできる。私だって数日に一回は買い物に出かけるから自由に部屋から出られることは知っている。だけれども、別に出ようとも思わない。何かにそう思わされているのだ。日常がある世界に生きる私はこうじゃない。新しい土地に引っ越したのならば、用事がなくても少し外へ出て何かするはずだ。いや、なにもしなくても外に出たっていいんだ。散歩するくらいでも。昔台湾に留学していた時もそうだった。わけもなく外へ出ていた。そしてなにをするでもなくふらふらとして家に帰ってきていた。

でも、今は、この非日常の中の生活では、それすらやる気にならないんだ。いや、やる気にならないというより「やるべきではない」と思えてきてしまうのだ。普通に考えて、部屋にこもりきりで体にいいはずがない。たまには外に出て散歩した方が体には良いに決まっている。他人と間近で接触しなければ散歩をしても咎められることはないだろう。だけれど、それすらやる気にならないのだ。体を動かそうと思い、毎日筋トレを欠かさないことにしている。たまにはヨガをしてみたりもする。だからきっと体を動かすのがだるいとかそういうことじゃないのだろう。体はだるくない。だが依然として何かに「外に出るな」と言われているような気がするのである。

社会の重たい空気か、同調圧力か。これはなんだろう。

ただただ、気持ちが悪い。なにに「外に出るな」と思わされているのだろう。確かに不必要に出るべきではないが、しかし部屋にこもりきりにならなくても……。いやそれでもやはり不必要に出るわけにはいかない、などと1人心の中で葛藤するのである。なんなんだこれは。


非日常の中の日常

とにもかくにも、家にいるほかない。とりあえず授業がない分自分で論文を読んだり語学をやったりして過ごすしかない。時間を有効活用しよう。非日常の中で、外出できるにも関わらず、よくわからない何かによって外出を禁じられた私にとっては、勉強をして生活リズムを保つほかなかった。リズムを保ちやすいようにエクセルで「在宅時間割表」なんてものを作って、朝から晩まで勉強と筋トレ、その他必要な事務作業を行えるように計画を立てた。

まず、朝活の時間。起きてから気が向けばヨガや瞑想なんかをやってみる。そして朝ごはん、着替え・準備、掃除。

1限目は移民研究の文献を読み込む。必要に応じてノートをとる。120分。

2限目は華人研究の文献を読み込む。これも必要に応じてノートをとる。90分。

昼休憩を挟み、3限目は東南アジア関連の文献(分野色々)を読み込む。時間が余れば語学。90分。

4限目は語学の時間。120分。必要に応じて事務作業も。

その後筋トレ、風呂、夕飯。

さらに5限目。とはいっても自由に読書する時間。昼間の読み残しを消費したり、研究とは関係ない本を読む時間。

毎日これの繰り返しである。まるで受験生のような1日の過ごし方であるが、この時間割に沿った生活が、非日常の中の日常となっていった。非日常をどう過ごすべきか、そんな問いに答えられる人なんていないだろう。結局どれが正解だということでもあるまい。自分が満足できる過ごし方をするしかない。どうせなにをやってもストレスは溜まるのだし。

非日常は続く。いつその終わりが来るのかもわからない。

だから私たちは、その非日常の中に自分で新しい日常をつくりあげて、これに適応して暮らして行くほかないのだろう。今や非日常が本当に自分の日常になりつつある。もう少しこれが続けば、従来の日常は非日常へとその地位を追われるだろう。私たちはもとの日常に戻れるのだろうか。

ポスト・コロナという言葉を耳にするようになった。コロナ禍が終わってももとの世界には戻れないかもしれないらしい。

私たちは古い日常を捨てて、新しい日常をつくり出し、それに慣れていくしかないのかもしれない。とにかく、1人でいるとダメ人間になってしまうので、今日も、そして明日も時間割に従って生活していくとする。



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