コロナ禍をまとめてみる|非日常の記録

さて、noteなんてダウンロードするだけして、全然使っていなかったのだけれど、今日から使い始めてみることとする(いつまで続くかは知らない)。

前にブログも書いていたのだが、忙しい忙しいと言い訳ばかりして書かなくなってしまった。書きたい気持ちはあるのだけれど、こんな中途半端な知識で書いてていいのかな、とか思っていたり、本当に忙しかったりで結局書かなくなってしまった(正確には下書きはいくつかできてきるので、更新しなくなってしまった、と言うべきか)。

それと、ブログを書いていて気がついた。私はいちいち自己紹介のブログを書くのが面倒だと思ってしまうのだ。なんたって、書きたいことはたくさんあるのだが、「なぜそれを書きたいのですか」という問いにいちいち答えてからでないとそれを書いてはいけないような気がしてしまっていたからだ。
本当は別にそんなに丁寧に書く必要はないのだと思う。もちろん、書いた方が読者にとっては筆者がどのような人間であるか理解しやすいのだろうが、やはりそれをいちいち書くのはどうも面倒なのだ。
だから、noteではいちいち自己紹介しないことにする。気が向いたら必要に応じて話すことにしよう。

さてと、本題に入るとする。

いま、この文章を書いている2020年4月26日、日本そして世界は「コロナ禍」と呼ばれる大混乱に陥っている。コロナウイルスのせいで世界中が混乱に陥っているわけだ。医療の面でも、経済の面でも、政治の面でも、そして社会の面でも、だ。

私個人の生活もコロナ禍の大きな影響を受けている。私はこの4月から大学院へ進学し、新しい生活が始まる予定であった。実家を離れ、一人暮らしを始め、その意味ではたしかに新生活は始まった。だが、新生活が始まってすぐに授業はゴールデンウィーク明けまでないと通知があった。学校には行かないので、先輩方と院生室で楽しくおしゃべりに興じることもないし、先生方とのやりとりも全てメールで済ませてしまう。同期との関わりもほとんどない。必要事項があればLINEするくらい。
これまで、新生活=新しい出会い、くらいに思っていた。いや、この考えは通常正しいのであろう。だが、今年はイレギュラーなのだ。異常なのだ。新生活と新しい出会いがイコールで繋がらない。新生活=孤独な一人暮らし、である。

もちろん、LINEやらインスタやら、人と繋がれるツールはたくさんあるし、実際にそれらのツールを使って色々な人と連絡を取り合っている。だが、実際に人と対面して話す機会がほとんどないせいで、驚くほど寂しく感じる。
また、「新生活=新しい出会い」のあのウキウキ感が全くないせいで、新しい生活に期待してきた分とても寂しく思うのだ。

そんなウキウキもせず、逆に寂しい思いをしながら一人暮らしをしていたころに、先輩からメールであるお誘いを受けた。

「このコロナ禍をフィールドノートにまとめてみませんか」

面白い企画だと思った。
コロナ禍というこの人類史上でも珍しい事態に、自分自身が当事者として直面しているいま、その自分自身を研究対象として観察してみないか、というのがその企画の趣旨であった。

自分自身を研究対象とする、というのが面白く思えた。特にこのリアルタイムで起きている混乱の中で自分がどういう影響を被り、どう生活していくのか、それを記録することはとても面白いことではないか。

ただ、自分自身を研究するというのは、言うのは簡単だが、やるのは難しい。いわゆる当事者研究ってやつだ。たしか大学院入試のときも、華人の友達が華人研究をしたいと言ったら面接官に「当事者研究になるわけですが、客観的な研究ができるのですか?」みたいなことを厳しく問われた、とか言っていた気もする。そのせいか、当事者研究=大変という漠然としたイメージが自分の中にあった。

たしかに、学問的に記録を進める以上、ある程度の客観性は担保されなければならないだろう。自分のことを好き勝手書いていては、それはエッセーや自伝になってしまう。
では、一体どうやってこのコロナ禍における自分を記録していくのか。先ほどの誘いのメールにその方法が書かれていた。

オートエスノグラフィー(autoethnography)は、自身の経験を社会・文化に位置づけて理解し、記述する方法です。記述に到達するには、徹底した自他の観察と記録が必要になります。窓辺からみた外の風景の定点観測もデータとなり得ます。

オートエスノグラフィーという方法を用いるらしい。つまりは、文字通り自分で自分に関するエスノグラフィーを書いていく、と。あくまでエスノグラフィーだから当然のことながら自信の経験を社会や文化に位置づけて理解する必要がある、と。そして、徹底した観察と記録が必要になる、と。

なるほど、言っていることは理解できるが、実際にやるのはかなり大変そうだ。

だが、せっかくいただいた機会だ。先輩方とつながるいい機会でもある。オンライン上での「新生活」を迎えるにもいい場ではないか。それに、なによりこの混沌とした社会情勢を記録するというのはアカデミアにいる人間(アカデミアの入り口前で気づかぬうちに門前払いされていないといいが……)の使命ではないか。先輩たちほどすぐれた研究手法もなにも持ち合わせていないのではあるが、ここはひとつ挑戦してみようじゃないか。

しかし、なにを記録しようか。
先輩方はすでに記録をとり始めている。あまりもたもたしていられない。やはりあとから分析することを考えると、記録の量が要となってくるはずだ。しかし、自分のことを記録したものなどない。日記もつけていないし(小学生のころ宿題で毎日書かされていて好きだったが、宿題でなくなった途端やる気をなくして書かなくなってしまった)、前述のようにブログも三日坊主状態である。
何かないものか。自分が毎日なにかを見る場所、書く場所、保存する場所……。

SNSだ。

特に、コロナ禍に関するものだと、自分のツイッターにはかなりの情報が蓄積されているはずだ。特に自分が書いたもの、リツイートしたもの、いいねしたものを見ていけば、その時の世の中の情勢に対して自分がどういう心情を持って、どういう考えを持って、そして実際になにを発していたのかがわかるはずだ。
オートエスノグラフィーのこれからの分はあとから書くとして、過去の分を追加で記録するときには、日記をもとに書くよりも逆にツイッターを遡った方が面白いのかもしれない。
共感する他人の考えがリツイートという形で示されているのだ。他人のつぶやきひとつひとつはごく小さな共感でしかないだろう。だがそれらを集積していけば、大まかではあるが当時の自分の考えを再現できるのではないか。それに数週間前の話だ。今始めれば、まだなんとなく思い出せるはずだ。とりあえずこれでやってみよう。

かくして、ツイッターを遡り、自分のツイートやリツイートしたものをワードにコピペして書き出す作業が始まった。期間はとりあえず大学院入学の4月7日以降とした。

しっかし、この作業はきつい。
金、土、日と時間をみつけてはコピペを繰り返し、やっと先週の日曜日、19日の分まで記録し終えた。すでにワードで37ページ分ある。それ以降の分はまだこれから。明日も、いやこのアプリを閉じてこのあとツイッターをいじるときも共感するものがあればリツイートするはずだ。つまりその分記録すべきものは増えていくわけだ。さっさとコピペし終えなければ。

リアルタイムまで追いついてすべてコピペし終えたとして、全部でワード何ページ分になるのだろう。かなりの枚数になるだろう。そこから当時の自分の考えや心情を思い出しつつ分析を進めていけば、なにか見えてくるかもしれない。

とりあえず、私は今日もコピペを頑張る。
分析内容についてはまた後日追って報告したい。


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