げんねこっじゃった②「げんね?」そや、ないな?
【 げんねことしゃんな 】
大根畑(でこんばたけ)で げんねことしゃんな
他人(ひと)が見ちょんど おはらハァ
笑(わ)れもんど
大根畑でモゥ 恥ずかしいことしないでってばァ
誰か見ているって
笑われちゃうって ゥンーモゥー
「鹿児島おはら節」より
《そや、ないな ? それは、なんですか?》
ということで、今回のキーワードは〈げんね〉で決まりのようです。さて、その意味や由来はどういうことになっているのでしょうか。
まずは、どういう漢字を当てるべきか問題にしていきましょう。
鹿児島の方言辞典などで調べると、「験(げん)無(ね)ぇ」と表現されていました。でも、なぜ「験」と「無い」で「恥ずかしい」意味になるのかという理由までは書いてありません。
そこで私は、仏教民俗学の研究で著名な五来重氏(ごらいしげる:故人)の著作にヒントを求めました。
氏は、市井の人々の宗教活動、なかんずく仏教と神道が混淆(こんこう)した形で受け入れられていた時代を見つめます。
修験者に交じり「大峰行」など厳しい「行」を自らに課し思索を深めました。そして、人々の信仰の要を、神仏習合が最も顕著に顕われる修験道に捉えたのです。
『山の宗教修験道案内』『石の宗教』(いずれも角川選書)などの著作から、そもそも「験(げん)」とは修験道に由来する古語であるという一つ目のヒントを得ました。
二つ目のヒントは、人々の一番身近にいる宗教者は、私達が普通に思うような坊主や神主ではなく修験者だったという見識に触れたことです。
どこか怪しげな風がある、なぜか歴史から消し去られた感もする修験者の存在。これが「験無ぇ」の意味を開く鍵(キー)になりそうな気がしました。
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