人と付き合うということ

先日、友人と人との付き合いに関しての話をした。なぜ人と付き合うのか。友人はそのことに対し、明快な答えを持っていた。
一、知的好奇心を刺激するような存在であること。
二、恋愛や結婚の対象であれば、安心感を与えてくれる存在、すなわち自分より安定していること。
その答えを聞いた僕は賛同の意も込めて、素直な感想として友人に「合理的だね。」と答えを返した。
それに対し友人は「あなたもそうなのでは?」と返した。
今まで意識的に考えたことが無く、虚を突かれ一瞬戸惑った。
確かに今まで会った全ての人と平等に仲が良いわけではなく、言われてみればそのようなフィルターを通して人と接していたのかもしれないとわが身を振り返った。そのことに反駁することは出来ず、自分はそのような傲慢で冷たい人間だったのか、そんなに僕の関係は味気ないものだったのか、と自己嫌悪を募らせた。ただどうしても引っかかる棘も同時にあった。

しばらくの間考えてみたが、どうもこの論理に刀を返すことは出来ないと半ば諦めかけた。鬱々とした気分になりながらも、空いた腹を満たすために焼きそばを作る傍らシェアハウスの住人に話したところ、彼女も昔は自分へのメリットのみを考えてパートナーを探していたが、今は素直に好きな人と付き合っていると教えてくれた。また、僕自身はそんな風に考えているように見えないという言葉もくれた。それらの言葉に少し元気をもらいつつ、長く付き合っている彼女に話を聞いてみることにした。


彼女には率直に僕自身が安定しているかどうかということを聞いてみた。
その答えは
「全然安定してないよ。」
だった。
その通り、としか答えようが無かった。
同年代は社会人二年目というのに、勝手に大学に入りなおし今はピカピカの大学二年生であり将来の展望は朧気で、気分の浮き沈みも激しい僕に安定の二文字は程遠い。
彼女は続けてこう言った。
「でもだから一緒にいるんでしょ。いつでも安定してる人なんていないんだから、だからお互い支え合うんでしょ。」
こともなげに言う彼女の言葉は僕の胸に静かに深く刺さった。
好きな人はただ好きで、その人を楽しませたり支えたいと思うものなんじゃないのか。それをお互いに思えるということが、人と付き合うということなんじゃないかと自分の中で腑に落ちた。


このことを通して、何かフィルターを通して無意識に人を選んでしまっていることを否定できたわけではない。ただそれはそれで、それぞれの好みがあるのだからいいじゃないか、と今は思うことにする。大事なことは自分の好きな人や関わっている人に完璧を求めず、お互い支え合っていけるような関係であること、相手を受け入れ、自分から与えることなんだろう、と思う。


強くなくても面白くなくても生きていていい。でも相手を支え、楽しませるような存在でありたい。弱くたっていいじゃないか、そう思える人が本当に強い人なんだと思う。人は根を持つとき、初めて羽ばたける。たったそれだけの話だった。


大事なことはいつだってシンプルだ。

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