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ルーツしまねインタビュー#1石倉ももこさん

「ルーツしまね」とは、島根にゆかりのある大学生、若手社会人が島根と繋がり続けるために、一人ひとりにとっての最適で多様な関わりを提供する、学生を中心にしたコミュニティです。このnoteでは、島根に関わりを持つ大学生や若手社会人に向けて様々な切り口からインタビューをしていきます。どのような想いで島根と関わり続けてきたのかというライフストーリーをじっくり丁寧に聴いてみました。

インタビュー1人目は、石倉ももこさん。
大学進学をきっかけに、故郷である島根を離れ、東京へ上京する。
憧れの都会生活を経て、生まれ育った島根を改めて見つめ直すことに。大学時代に出会った島根出身の大人たちの出会いによって、現在、島根での暮らしを選び、働いていている。大嫌いだった島根が大好きになったその背景と理由に迫る。

<自己紹介>
名前:石倉ももこ
出身地:島根県松江市
所属:一般財団法人地域教育魅力化プラットフォーム/株式会社MY TURN/株式会社ソフィアクロスリンク

「島根が大嫌いだった私が、島根を大好きになった」 

Q東京への憧れはいつから?なぜ、そう思ったんですか?
小学3年生の時から、東京への憧れを持っていた母の影響や初めて東京に行ったことをきっかけに、「私は島根にいるべきではない。いつか絶対東京で暮らす」と思っていました。

お爺ちゃんとお父さんが中央大学を卒業していて、3代連続で行くと名誉ファミリーとして表彰されるという機会があって、お爺ちゃんやお父さんのために、私も島根から中央大学に行くんだと思っていました(物心ついた時から、決心していたのかも…)そんなふうに、親の発言や経験に憧れ、自分の生きる道標にしていました。
両親も東京に住んでいた経験があり、都会への抵抗感は一切なく、むしろいい場所だと思って東京で住みたいという気持ちがありました。実は高校受験のタイミングで、一度東京に行こうと思って受験しました。そのときは受験に失敗し、島根の高校に進学したのですが、あと3年間も島根で過ごさないといけないか、、という気持ちがありました。ただ、高校1年生のときに、今の学力のままだと中央大学に行けないということに気づいてしまいました。

それから私の生活は一変し、15時に帰宅して16時から夜ご飯やお風呂などを済ませるといったん寝て、そして夜0時に起きて朝まで勉強して学校に行くみたいな生活を始めるようになりました。すると、学力が上がって、勉強が楽しいと思うようになって。これはもしかしたらチャンスがあるかもしれないと思いながらも、私にとって中央大学は高い目標のままでした。

そして、高校2年生の時、別のクラスの先生が中央大学出身であることを隣のクラスの友達に教えてもらい、話を聞きにいきました。初めて話したにもかかわらず、すごく応援してくださり、先生に進路相談や受験対策に付き合っていただき指定校推薦で中央大学に入りました。当時は、東京に行きたい、中央大学に行きたい、ただそれだけの思いしかなかったので、島根には二度と帰らないと思っていました。

Qなぜ、石倉さんはそこまで島根が嫌だったのですか?
単純に、私にとっての東京は完全に現実逃避の場だったのかもしれません。小学3年生の頃から夏休みは毎年東京で過ごしていて、キラキラしたもの、食べたことのないものもたくさんあって、いろんな新しいものにあふれている土地に憧れがあったと思います。日常を淡々と過ごす島根での生活とは大きなギャップがあったし、島根では都会のように遊ぶことができないと思っていました。
東京は、新しいものが増えていくサイクルが早いし、食べ物、美術館、ファッションも含め目にするものすべてが最先端で、島根では手に入らないものをたくさん手に入れて帰る場所だと思っていました。東京は進んでいて、島根は遅れている場所とすごく感じていました。

Q夢の東京での大学生活はどうでしたか?
東京進学が決まった時は、「ついに私の夢叶った」と思いましたね。11月に合格が決まって、そこからの半年間はすごく楽しくて、「島根での暮らしは最後だから!」と思って過ごしていました(笑)
東京に上京して入学してからも、同じ指定校推薦で入った友達がもともといたので、すごく楽しんでいたと思います。大学1、2年生の時は、授業やサークルなど大学の中で過ごす選択肢しかなかったので、大学外に出て活動するといった考えはありませんでした。
とにかく、大学に入学したらサークル入ろうと思い、テニスサークルと陸上同好会に入りました。それと、ずっと箱根駅伝が好きだったこともあって応援団にも入りました。学ランを着ているリーダーと、チアリーダーと、ブラスバンドで構成されていて、私はブラスをやっていたので、大学2年生までは明治神宮に行って野球の応援をしたり、箱根駅伝のとき大手町で演奏をしたりしていました。応援団はとても忙しくて、月・木曜日は練習、火・水曜日は野球応援、金曜日が唯一の休みで、土日は準硬式野球とかサッカー、ラグビーの応援にいって、授業出れないような日々も続いていました。

2年生の夏ごろから、私は部活のために大学に入ったんだろうかと思うようになっていました。その時期に部長決めも行う時期にもなり、ここで区切りをつけようと2年生の夏で部活もサークルもやめました。

Q周りはサークルやバイトをしている中で、石倉さんは部活やサークルだけをするために大学に入ったわけではないという悶々とした気持ちがあったと思うんです。大学2年生の夏以降で石倉さんの中でなにか転機となるものはありましたか?

部活をやめてから一気に暇になりました。辞めたタイミングは夏休みだから授業もなくて、これまでは元日は箱根駅伝などの応援で東京にいないといけなくて、島根に帰省できる期間も2泊3日くらいの短期間でした。だからこの機会にゆっくり島根に帰ろうと思って帰りました。帰省してからは地元の友達に会って話をしたり、キャンプをしたりして楽しい時間を過ごしました。
帰省の最終日に、母から「こういうの行ってみたら?」と言って渡されたのが、ふるさと島根定住財団のダイレクトメールでした。島根にゆかりのある20〜30代の若手社会人の座談会を東京で開催するという内容で、東京に帰ったら部活もないので暇だし、帰ってすぐ開催されるとのことだったので行ってみようかなという気軽な感じで行ってみたのが大きな転機になりました。

実際に行ってみると、県外出身で島根にIターン就職した人や島根出身だけど県外で就職している人、島根大学出身で県外で就職したけど島根にまた帰りたいと思っている人など、20代前半〜後半の若い人たちが4人くらい登壇してトークセッションを行うという企画でした。そこで、衝撃だったのは、企画担当していた田中輝美さんと、ふるさと島根定住財団の原さんという方との出会いでした。2人とも島根が嫌いで、大学進学や就職で関東や関西に出たとおっしゃっていました。田中輝美さんは新卒で島根に帰ってきた当時は、都落ちだと思ってUターンしたのに、「今島根が面白いんだよ!」とおっしゃっていて、原さんも島根県外に出たかったから、東京に出て働いていたのだけど、しまコトアカデミーという講座を受講して島根案外おもしろいって思うようになって島根に帰ってきたとおっしゃっていました。私と同じように島根が嫌いで、大学は県外に進学して外で働いていた人が、わざわざ島根に帰るとか、都落ちだと思って帰ってきた島根が働いてみてすごく面白かったとか、どういう感覚なんだろうと理解できなくて、島根っておもしろいの?なにが?どこが?と、すごく衝撃が走りました。理解出来なさすぎたので、どういうことなんだろう、知りたいと探究したくなってしまったのかもしれません。

また、登壇された4人のお話もすごく面白くて、島根がおもしろいと大学生の頃に知って県職員として働いていますという人や、仕事だけではなく地域にでて活動してたりする人もいて、なんか私がこれまで送ってきた大学生活と真逆の場所で、楽しいと言っている人がいて、「え!?島根おもしろいの!?」という半信半疑ながらも、島根がなぜおもしろいのか気になって実際に自分の目で見てみたいという気持ちになっていきました。この企画があったから、島根っておもしろいのかも、いきいきと働いている人がいるんだ、と島根のイメージが変わっていきました。東京で過ごしていると、電車に乗っているサラリーマンがしんどそうに見えたりとか、バイト先の人も子どもを保育園に預けて延長保育までして走って迎えに行くみたいな働き方をしているということに疑問を持っていたから、余計に、島根で働く大人がそうじゃない前向きな働き方をしているように見えました

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ー島根に関わりはじめるきっかけになったのは、原さんと田中さんだったのですね!
そうですね!原さんは、東京来るときとかは声かけてくれたり、次のイベントについての情報を教えてくれたり、個別でお茶したり本当にお世話になりました。こんなに社会人の人がいち大学生である私を気にかけてくれるとか、最近どうなの?と相談に乗ってくださることがすごいありがたかったです。原さんは、こういう大人になりたいと一番最初に思った、私の一番最初のロールモデルでした。

Q.そこからルーツしまねにはどうして関わるようになっていったのですか?
大学2年生の2月頃、原さんに「紹介したいお兄さんたちがいる」と言われて出会ったのが、尾田さんと森山さんという方でした。尾田さんと森山さんは当時東京と島根でそれぞれ働きながら、島根を卒業した大学生のコミュニティを作りたいんだとおっしゃっていました。自分たちも島根出身で関東の大学に進学して、大学生だった時に出会っていて、この大学や出身市町村を超えた繋がりってすごくいいなと思っていたから、島根というキーワードで繋がれる大学生のコミュニティをつくりたいんだとおっしゃっていました。そのコミュニティの名前を「ルーツしまね」にすることにしたんだけど、一緒にやろうよと言われて、正直何をするのかはよくわかっていなかったけど、とにかく暇だし大学外での繋がりを欲していた時期だったので、2つ返事で「はい!」と答えました。そこから、尾田さん、森山さんを始めその他先輩2名を加えた5人で、月に2〜3回東京駅の近くのカフェに集まるようになって、来年度の5月に島根から関東に上京してきた大学生の歓迎会をやろうという話をして企画をしていました。よくわけも分からずとりあえず「はい!やりたいです!」といっていたら、色んなことが進み始めていきました。

Q.そこから島根の人とのつながりがどんどん増えていったと思うのですが、どういうふうに島根での活動が増えていったのですか?
それでいうと、田中輝美さんと原さんが開催していたイベントで出会った、青山友樹くんと野津直生くんという同世代の子がいて、島根出身で東京の大学にいる者同士、一緒に何かやっていきたいねという話をするようになっていきました。2人も島根でつながる学生コミュニティみたいなのをつくれたらおもしろいよねと言っていたので、ルーツしまねというコミュニティを作ろうとしている人がいるんだよよねという話をして、2人も誘って一緒におもしろい大人の中に混ざって動き始めました。2人とは大学が近かったこともありよく会っていて、2人と一緒に活動を広げていったという感覚でした。2人の存在が大きかったです。

大学3年生の夏、森山さんから電話がかかってきて「高校生が自分のプロジェクトを作っていく(通称、マイプロジェクト)合宿をするんだけど、高校生のサポートをしてほしくて、とりあえず旅費は出すから7月に帰ってきてくれない?」と言われました。友樹と直生と3人で、テスト前だけどどうする?という話をしながら、何をしたらいいかよくわかんないけどタダで島根に帰れるし行ってみる?という下話をして、3人で帰ることにしました。そして島根に帰って合宿の会場に行ってみると、島根出身の大学生が10人くらい集められていました。そこで出会った大学生たちは、私がこれまで出会ったことのないような人ばかりで、いつか地元に貢献したくて地域について学ぶために地域学部にいきましたとか、自分の母校のここがすごいんですよ!と胸を張って話してくれて、こんなに地元が好きだという同世代が島根にいたことがすごく衝撃的でした。

また、大学3年生の夏休み期間は50日間ぐらい島根に帰っていたので、島根で働いている社会人に会いに行っていました。ある日の山陰中央新報の記事で、藤山先生という研究者の方が研究所を立ち上げられたという記事を見つけて、会いたい!と直感的に思い、原さんにご相談して紹介してもらったり、地元企業の人事の方にお会いしたり。島根に帰る前は、そんな長期で島根にいて暇にならないかなと思っていましたが、たくさんの大人の方とお話しする機会をいただいて、とても充実した濃い夏休みを過ごすことができました。

他にもふるさと島根定住財団が東京で開催していた、島根ナイトとか教育ナイトなど、島根在住のゲストと東京で出会えるイベントに参加しました。そこで出会った方に、次帰ってきたら津和野町においでよとか、海士町においでよと言われて、長期休みに実際に会いに行っていました。素敵な人だなと思って、その人に会いに町に行ってみると、今まで知らなかったおもしろい取り組みを知ることができる、そんなことがたくさん起こりました。そう過ごしているうちに、田中輝美さんや原さんが言っておられた「島根がおもしろい」っていうのはこういうことなのか、と腑に落ちていく感覚がありました。いろんなイベントに行って、いろんな人に出会ってから、徐々に「島根がおもしろい」というのが自分の言葉になっていったような気がします。都会では、何かを買いに行ったり、食べに行ったりという遊び方をしていましたが、それよりも島根で人に会いにいくという時間の方が、いつしか楽しくなっていきましたね。

Q.なるほど。そこから休学をするきっかけはなんだったのでしょうか?
一番大きかったのは、さっき話に出たマイプロジェクトの合宿に参加していた高校生との出会いです。合宿には50人くらい高校生がいたのですが、みんな自分の人生に真摯に向き合い、自分の体験や気持ちをちゃんと言葉にしている姿を見て、「私はこんなに真剣に自分の人生を生きれているのかな」と感じました。大学入学までは特に、敷かれたレールの上を、脱線したりしながらも走っていたような気がして、自分の人生を自分で決断するということをしてこなかったし、なんとなく生きてきてしまったなと、悔いる気持ちになりました。だからこれからの人生はちゃんと自分で選択していこう、という気持ちが芽生えたのが一番のきっかけだったと思います。

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ちょうどその時、ルーツしまねの活動を一緒にやっていた大脇さんという先輩がおられて、大脇さんは大学を休学して久米島で1年間インターンをしていたという話を聞いていました。そんな選択をしておられた先輩がいらっしゃったので、私も卒業後の選択に真摯に向き合うために休学をしよう、という決断をすることにしました。当時、島根っておもしろいと思うようになった頃で、でも卒業後に島根で働くのか、都会で働くのか、決めきれないでいました。当時周りにいた島根で働く大人は、ほとんどが一度都会で働いてから島根にきたという方だったので、新卒で島根で就職するというイメージが湧かなかったんだと思います。でも新卒で島根で就職するという道を諦めたくなくて休学した、というのが一番の理由でした。

それから、どこでインターンをするかを考えていた時に、雲南のNPO法人おっちラボに行きたいと思って。大学3年生の時に、おっちラボの現代表の小俣さんのお話を聞く機会があって、地域の中で何かをやろうとしている人と一緒に走る、という姿がすごく素敵だなと思ったんです。自分が地域の中でバリバリやる、起業するみたいな人にもたくさん会って来たけど、そういう人たちが生まれる土壌自体を雲南は作ろうとしているということ小俣さんから聞いたんです。チャレンジできる土壌づくりみたいなことってすごく本質的なんじゃないかと思って、その生態系を自分の目で見てみたい、というのが一番の欲求でした。当時おっちラボでは公式のインターンみたいなものがなかったので、直接小俣さんにご連絡し、1年休学してインターンをすることを伝えて、「おっちラボでインターンさせてもらえませんか」とお願いしてみました。そしてご快諾いただいて、インターンすることが決まりました。

そして、大学3年生の2月から1年間、島根に帰ってきました。最初は、週5でおっちラボでインターンをする予定だったのですが、同じオフィスの中にNPO法人カタリバの方々も一緒に働いておられて、休学前からカタリバの方々にはお世話になっていたこともあって、せっかく雲南に来ているし色んなところ見てみたら?と小俣さんからご提案いただいて、週3おっちラボと週2カタリバという感じで、休学中の前半を過ごしました。

インターンをお願いする段階から、いいんですか!そんなのありなんですか!の連続でした(笑)こんなに快く受け入れてくださるんだ、とすごくありがたい気持ちになりました。

ー石倉さんはある意味、ない形をつくってきたんでしょうね!
そうかもしれないですね。みなさんわたしがこうしたい!と思ったことを受け入れてくださって、むしろこうしたら?みたいな提案をたくさんしてくださいました。

おっちラボでは、幸雲南塾やローカルベンチャーラボ合宿の運営のお手伝いをさせてもらいました。県外の様々な地域の方が、視察などで来られることが多かったので、全国各地の取り組みを聞かせていただくことができて、すごくありがたい環境でした。ただ、せっかく休学したのだから他の場所でも働いてみたいという気持ちもありました。6月頃、地域・教育魅力化プラットフォームでアルバイトをする機会があり、そこで代表だった水谷さんに「うちでもインターンしなよ」と言っていただいて、おっちラボは8月いっぱいで区切りをつけさせていただいて、9月からプラットフォームでインターンをさせてもらうことになりました。プラットフォームでは地域みらい留学の参画校を広げていくという業務に関わらせていただきました。

カタリバは1年間続けさせてもらって、休学前から関わっていた、ルーツしまねの大学生のコミュニティづくりを1年間させてもらっていました。

そんな感じで、みなさんに時には巻き込んでいただいて、時には柔軟に対応していただいて、1年間の休学生活を過ごしました。本当にありがたいことでした。

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Q.休学インターン後は、4年の休学を終えて就職活動が始まる時期ですよね?

そうですね。インターンを終えて、2月末に東京に戻りました。当時は3月から就職活動が開始するという世間の雰囲気もあり、それに合わせて東京に戻りました。ただ、まだ島根で働くって決めきれなかったからいったん東京に戻って就活してみようかな、くらいの気持ちで東京に戻りました。東京で働こうと決めたわけでもなかったんです。いわゆる都会の就活というものを体験してみたい!という好奇心でした。スーツを着て幕張メッセで開催される大きい合説に行く、みたいなことを一度経験してみたいと思って行ったりしていました。
でも行ってみて、すごく異様な光景だなと思ってしまって。島根にいたときは、組織の人事の人と就活生の私とかではなく、一人の人と一人の人として関係性を築いった上で一緒に働かせてもらっていたという感覚があったから、企業の説明をされて、数多いる就活生の一人として見られて、この関係性ってなんなんだろう、この関係性じゃないと就職活動ってできないのかな、おかしくない?と思っていました。この人と働きたいと思った人に採用されたいし、この人と働きたいと思える人と一緒に働きたいとすごく思っていました。
でも、一応その就職活動の流れに乗って、エントリーシートとか出したりしても明日。そんな就職活動を5月くらいまで続けて、島根で経験した教育や人材業界を志望して、いくつか受けていました。でも一番憧れていた会社に落ちた時に、「あ、東京で暮らす意味が亡くなった」と思ったんです。そこで気持ちの整理がついた感覚がありました。それから、他の企業も辞退させてもらって、島根帰ろうと決めました。大学もあとゼミと卒論を書くだけだったから、教授のところに「島根帰りたいんですけど、月に一回東京にきてゼミに参加するので、他の授業は免除してもらえませんか」ってお願いに行ったら、「お!いいよ〜」と快く承諾してくださったので、4年生の5月には島根に帰って、島根で暮らそうと決めました。


ー石倉さんの話を聞いていると、全ての行動の前には「憧れ」というものがある気がしました。でもそれを全部やっちゃうのがすごいですね。
憧れが原動力はすごくあります!!ロールモデルとの出会いとか、親の発言とか、誰かに勧められて自分が経験していないことに対しての憧れはあった。憧れから生まれた経験してみたい!ということを満足するまでやるから、一個一個やることに対しては全く後悔はないですね。あのときこうしておけばよかったと思うことは全く無いです(笑)


Q.これまでで、憧れのものにたくさん出会った大学生活から島根に帰ることを決めて島根に就職をすることを決めたというところまで話をしてきたのですが、今島根に帰って、働き初めてどうですか?
一緒に島根で活動してきた私たちの同世代は、やっぱりまだ新卒では都会で働く人の方が多いです。でも意思を持って島根で働くことを選んでいる人も年々増えてきている気がします。

私は、これがやりたいから島根で就職した、という感じではなくて。島根の人と出会ったり島根で起こっている取り組みに参加させてもらったりして、大学生活を通して島根に育ててもらったと思っていて。自分の人生を自分で選択できるようになっていったのも島根のおかげだと思っています。だから、自意識過剰ですけど、ここで私が島根を選ばなかったら、だれも島根を選ばないんじゃないかって思っていたので、そういう意図で島根を選んだという背景は大いにあります。
島根に帰ろうというのをまず決めて、それから何をしようと考えていきました。

新卒で就職した一社目は、まだ島根で見ていない世界を見たいという考えが強かったので、でもその中でも島根の企業なのに日本を代表することをやっているとか、最先端の取り組みをしているところに行きたいと考えていました。あと、今までどちらかというと、中間支援組織とか行政の立場での仕事を見させてもらっていたから、島根県内の民間企業に入ってみたいという気持ちで1社目を選びました。1社目に入ったところが、石見銀山生活観光研究所というところでした。私は大学時代、この人に会いたい!という人に会いに現地に行くことで、自然とその土地の魅力や取り組みを知るみたいなことがたくさん起こっていたので、その土地で暮らしている人に会いに行って話を聞いたり、その土地で生活している人の暮らしを体験するみたいなことが、島根をおもしろいと思う入り口になるんじゃないかという思いがありました。そういうその暮らす人を通して、その土地を好きになってもらう、みたいなことが、島根っておもしろいと思える入り口になるんじゃないかなと思って、入社しました。

そこでの体験はすごく勉強になりました。ただ、お客様のメイン層は50〜60代のご婦人が多かったんです。それは最初からわかっていたことだったけど、私が価値を提供したいのは誰だっけ?と改めて自分に問い直す機会になりました。私はやっぱり大学生とか、これからのキャリアを考え決めていく時期の人たちに対して私ができることをしていきたいと強く思うようになって、転職を決めました。


Q.今は、どういうことを仕事としてやっているのか聞かせてください。

今は、地域・教育魅力化プラットフォーム、株式会社MY TURN、株式会社ソフィアクロスリンクという会社でお仕事をさせてもらっています。
地域・教育魅力化プラットフォームでは、大学生の頃からやっていたルーツしまね事業を中心に取り組ませてもらっています。自分が大学生活を通して、島根の人と出会ったり、いろんな取り組みを間近で見させてもらうことで、自分のキャリアと向き合うきっかけになったという恩恵があるので、これからの世代にもそういった経験ができる選択肢を提示できたらいいなと思っています。お節介かもしれませんが(笑)

株式会社マイターンでは、関東の大学で島根県の事例を通してローカルビジネスを考えるという講義の運営を、田中輝美さんと一緒にさせてもらっています。これも対象は大学生で、島根出身の大学生ではないけど、島根を通して自分の興味を深めたり、社会との接点を持つきっかけにしてもらえたらいいなと思っています。
株式会社ソフィアクロスリンクは、島根県内の中小企業さんに対して研修をさせてもらうというお仕事をしています。普通社内研修って社員のみで実施すると思うんですが、この研修では社員と、高校生・大学生が一緒に研修を実施します。社員が高校生や大学生の考え方や発言でハッとさせられる、みたいな瞬間もあったり、高校生や大学生は、自分の意見に耳を傾けながらチームを先導してくれる社会人に憧れを抱いたり、そんな双方にとっての転機の場に立ち会えるのはすごく楽しいです。

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Q.自分が大学生の時に受けてきたことを、社会人という立場で、高校生や大学生に向けて提供するところまでたどり着いたということですよね。そんな中で、ルーツしまねというコミュニティを大学時代につくって、印象に残っていることや、これから更にこう良くしたいという想いはありますか?

印象に残っていることはいっぱいありますね。でもやっぱり、休学インターンの最後の仕事だった、しまね未来共創フェスタはすごく思い入れがありました。県内の高校生、島根県にゆかりのある大学生、県庁の方や県内企業の経営者の方とかが集まって、年齢や肩書関係なく、どうしたら島根に人が帰ってくるのか、これからどんな島根になっていったら魅力的な島根になるのかみたいなことを、みんなでフラットに考えられる場があるということが島根ってすごいな、やっぱこれは島根だからできることでしょ!という、島根の明るい未来に確信が持てる場でした。そしてそう思ったのは自分だけでなく、自分たちの同世代の大学生や高校生も、島根っておもしろい!と思っているとあの場で聞いた声や温度で感じました。
ルーツしまねでは、そういう、同世代、後輩、憧れの先輩との繋がりが生まれ、同じ未来を見据えて本音で語り合う場をたくさんもらいました。そういう濃い時間を通して、いつでも本音で相談できる仲間や、本気で意見を言い合える仲間ができていったのは、一生の財産だと思います。本気で、自分の未来やキャリアについて話して言い合える仲間がいることはとても心強いことだし、そういう関係性が広がっていくといいのになと思っています。今はわたしたちの世代はほとんど社会人になってしまいましたが、社会人になってもお互いの仕事のことや今後のキャリアについて語り合える関係性が続いています。
今の大学生などこれからの世代にもそういう関係性ができていくといいのになと思いながら、このご時世でなかなか対面で集まることができないのが心苦しいです。でもこの環境の中で、どうやったら本音で語り合える世代を超えた関係性ができていくのかを考えていくというのが、これから考えていくべき課題なのかもしれません。

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Q.そういう人との関係性が幸せにつながるって石倉さんがわかっているから広げていきたいという思いなんですね。この地域とか、学年とか、出身を超えた仲間が増えて広がって行くことが石倉さんの今後の取り組みたいテーマであり、ルーツしまねでやりたいということなんですね。

ルーツしまねを通してやっていきたいところはそうですね。私自身が、時には真剣に話し合い、時にはバカやって遊べる同世代との横の関係や、「休学とか、インターンってありなんだ」と教えてもらったり、話を聞いてアドバイスしてもらえる先輩とのナナメの関係性に助けられたからこそ、この関係を途絶えさせたらだめだと思っています。途絶えさせず、ずっとつなげていく一端を担えたらいいなと思っています。


Q.自分の原体験からすべての想いとか仕事がつながっているというのが面白いですね。これから石倉さんの考える仲間を増やしていきたいと思っているなかで、今後ルーツしまねで取り組みたいことはありますか?

今大学3年〜4年生の世代の子で、ルーツしまねの運営に携わってくれている子たちも数名いて、そういう大学生たちにとって本当に有意義だったと思える機会を一緒に作れたらいいなと思っています。ただ使っている、使われているという関係性は嫌なので、その子達一人ひとりにとって本当に意味のある機会が作れたらいいなと思っています。そいういう今の大学生たちと、社会人1〜3年目の私達の世代、ともう少し上の世代の人たちなど縦の関係をつないでいくこと、あと住んでいる地域を超えて関東、関西、四国、島根などにいる子達を横でつなげて行くことが今の私が描く仲間の広がり方です。最初の接点作りが大事で、あとは自分たちで自然と繋がり続けると思うから、、初期接点を作るということは自分ができたらいいなと思っています。いろんなロールモデルにたくさん出会ってつまみ食いしながら、自分なりの生き方をみんながそれぞれに考えていけるようになってほしいです。

Q.最後に、大学生だった石倉さんが、社会人に「島根おもしろいよ!」と言われていたと思うのですが、逆に石倉さんが社会人になって、「島根おもしろいと思う理由」を聴きたいです。

島根のことずっと嫌いだった私が、わざわざ県外に出たのに島根を好きになったということが、島根のおもしろさを物語っていると思います(笑)でも一番のおもしろさは、島根が嫌いだった頃の私も含めた私の人生の変遷を、島根県内各地のみなさんが見守ってくれている、ということですかね。東京にいた頃って、そもそも社会人と出会う機会もなかったですから。〇〇大学の私でも、〇〇企業の私でもなく、一人の人と人として繋がって下さって、一人の人として興味を持っていただいて、どんな決断をしても見守り応援してくださる暖かさ、それいいね!一緒にやろう!といってもらえる空気感は、島根のいいところであり、おもしろさかなと思います。

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最後まで、読んでくださりありがとうございました。

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・地域・教育魅力化プラットフォーム:https://c-platform.or.jp
・myturn:https://myturn.work
・幸雲南塾:https://www.co-unnanjyuku.com
・ソフィアクロスリンク:https://www.sofia-inc.com/company/profile_scl.html
・しまコトアカデミー:https://www.shimakoto.com
・地域みらい留学:https://c-mirai.jp/

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