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【大阪】2015年4月 ④ 堀越神社

聖徳太子が四天王寺を創建した際、
崇峻天皇を祭神として
風光明媚な茶臼山の地に
社殿を造営したのが最初と伝わり、
四天王寺七宮の一つに数えられる。
かつて創建当初から明治時代中ごろまで
境内の南沿いに堀があり、
この堀を渡って参詣したことが
社名の由来だとされている。
古くから
「一生に一度の願いを聞いてくださる」と、尊崇を集めている。

配祀

小手姫皇后

第32代天皇崇峻天皇の妃。
大伴連糠手
(おおとものむらじぬかて)の娘。
崇峻天皇との間に
蜂子皇子と錦代(にしきて)皇女の
一男一女を儲ける。

『日本書紀』には、
小手子が天皇の寵愛が衰えたことを恨み、
献上された猪を見て
天皇が漏らした
「何の時かこの猪の頸を断るがごとく
朕が嫌しと思うところの人を断らむ」
という独り言を、
蘇我馬子に密告したことが、
崇峻天皇暗殺事件のきっかけとなった
という記述がある。


蜂子皇子

欽明天皇23年(562年)に
崇峻天皇の第三皇子として誕生した
と伝わる。
崇峻天皇5年(592年)11月3日に、
蜂子皇子の父である崇峻天皇が
蘇我馬子により暗殺されたため、
馬子から逃れるべく
蜂子皇子は聖徳太子によって匿われ
宮中を脱出して
丹後国由良
(現在の京都府宮津市由良)から
海を船で北へと向った。
そして、現在の山形県鶴岡市由良に
たどり着いた。
海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に
導かれて、
羽黒山に登り羽黒権現を感得し、
出羽三山を開いた
と言われている。


錦代皇女(にしきでこうじょ)

小手子の子、蜂子皇子は
厩戸皇子の計らいで京を逃れ、
山形県鶴岡市の出羽三山の開祖となった
と伝えられていますが、
小手子も蜂子皇子を捜し、
実父と娘・錦代皇女とともに
東北に落ち延びたましたが、
旅の途中に錦代皇女を亡くした小手子は、
故郷の大和の風情に似た、
現在の福島県伊達郡川俣町や
伊達市月舘地域に
桑を植え養蚕の技術を伝えたといいます。

なぜか、この阿部野橋という
発展する地域に、異空間のごとく、
鎮座していることに、
こころが落ち着きます。

大阪では、一番大好きな神社です。
それは、ご縁ある、
蜂子皇子さまが祀られているからだと
思います。

懐かしささえ、覚えました。

茶臼山稲荷神社

かつては茶臼山の山頂にあった。
大坂冬の陣の際に徳川家康が
茶臼山に本陣を置き
稲荷神社にお詣りをしたからか、
大坂夏の陣の際に
真田信繁の攻撃を受けた時、
茶臼山稲荷の白狐に危機を救われたという。
そのこともあって
家康の信仰は厚かったという。
大坂夏の陣の後、現在地に移転された。
江戸時代、大阪城代が新たに任に就くと
当社に詣でて幣帛を奉り、
燈籠を献じ、
茶臼山の家康本陣跡に詣でたと
伝えられている。

太上神仙鎮宅霊符尊神 = 天之御中主神

鎮宅霊符は、家内の安全を保つこと、
また、そのために行われる祈禳の総称。
安宅ともいう。

人間が住む家屋及びその下の地域、
土地などには様々な鬼神が満ちている。
それらが人間の行う不適切な行動によって
穢れ、観念されていた。
なお、道教の道士たちも使用をしていた。
悪影響を除くことを優先に行われていた。
時代を重ねるに至って、
道士たちは鎮宅霊符の技法を発展させ、
五方角に貼るなどの技を編み出した。

節分と、7月7日、七夕に、
護符を授与しています。
いつか、この時に参拝したいものです。

皆様が、御神木を触られていくので、
宮司さまが、菰巻きして、保護しています。宮司さまから、
「御神木をそっと触られて、
御力をいただいていきなさいね」という
お言葉をいただき、感激しております。

ちんたくさんの裏手には、黒龍社

だいたい、午前7時前ぐらいから、
門扉は開いております。


わたしは、こちらの宮司さまの
助言によりまして、助けられました。
それは、心身ともに疲弊していた時で、

「お宅には、火打石はありますか?
なければ用意しておきなさい。
文言をお教えいたしますから、
唱えながら、火打石を、
内側から玄関扉を見て、打ちなさい。
そうすれば、難も邪気も逃れられますよ」と。

ありがたいことに、毎日、続けました。
すると、気が晴れていきました。
翌年、参拝しまして、感謝申し上げました。そして、初穂料を
置いていこうとしましたら、
狛犬をいただきました。
ありがたいことです。
神棚は、稲荷宮ですので、
狛犬は飾れませんが、
大黒さまの御社がありますので、
そちらに置いております。
このコロナ禍で、2年、
参拝できていませんが、
宮司さまは、お元気で
いらっしゃいますでしょうか。

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