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逃げるのは恥でもないし、役にも立つ

時事ネタ? に触れていきたい話。

私は幾度となく、noteで時事ネタに触れてきましたが、ほとんどがちょい触れであり、まあ真面目に書いたのは「某プロスポーツ選手のうつ(リンク)」くらいですかね。

まあ今回の記事もあくまで着想のみで、カスッたくらいのネタです。

さて、先日、「逃げるは恥だが役に立つ」にて共演をしていた星野源さんと新垣結衣さんが結婚なさりました。世では新垣結衣さんことガッキーの結婚と言うことで、ガッキーロスみたいなことがありましたが、私としては星野源さんのほうがショックというか衝撃が。だって、美人さんはいつか結婚していくものだけど、星野源さんはちょっと独身貴族感があったので、「嫌だ!」って感じではないですが、「おお、まじか」っていう衝撃はありました。

さてさて、時事ネタ的な部分に増えるのは以上で終わります。ありがとうございました。

よし、じゃあ本題の「逃げるは恥だが役に立つ」について言及していきましょう。この言葉はハンガリーの諺らしく、この言葉を額面通りに受け取れば、「逃げることは恥ではあるが、それが役に立つことがある」(ただ文言を増やしただけ笑)

私が気に食わないのは前半部分である。後半部分はとても共感する。確かに逃避するということは特に大きな役割を果たしていて、その逃避は物理的な離脱であったり、一時的な休息であったりを想定できるが、これは大いに役に立つ。昔、「不登校は次に活かすための休息として認められるべき」、なんていいましたが、まさにこの理論であり、登校という行為に背くいわば「逃げる」ことで、今の自分の健康を大事にして次に活かす。これはあってしかるべきな考え方である。

さて、ここまで逃避は悪くないと書いているので、わかると思いますが、そもそも逃避は「恥」じゃないと思うのです。この言葉の最大の間違いは「逃避」という選択肢がフォーマットとして「恥」つまりはマイナス的な印象として捉えられていることです。

もしも日本語と同じようなニュアンスとしてハンガリーでも浸透しているのならば、日本と同様にハンガリーもなんか根性論的な国なのかな? と思ってしまいます。

「逃避」とは、ただの選択肢に過ぎない。別にそこにプラスもマイナスもない。ただ今の状態からの脱出を表しているだけである。それを何故、恥と言えようか?

世の中には「戦略的撤退」という言葉がある。今では「恥としての逃げる行為」をカッコよく言い換えた言葉のように扱われることも多いが、その本質は異なると思う。戦略的撤退は負け戦になった戦の被害を最小限にして、次の戦に兵を温存したり人命を守ることで再起を図ったりとその汎用性は高い。

ただここまで言っておいて、逃げることが恥であることになる場合もあるとは思う。行為自体にはプラスもマイナスもない。ただそれを行った本人がどう思うかで、それは「恥」になりうるのだろう。他人が決めるようなことでもない気がする、正しくは客観的にそれをどうやって「恥」として定義できるのか、という話なのだが。

逃げることをフラットにプラスマイナスゼロで行うことで、それをただの選択として受け入れることもあるだろう。逃げることを誇りに思って、英断として受け入れることもできる。逃げることをそれこそ恥だろ思って、それを負い目に思うこともあるだろう。

フラットな選択であっても、フットワークが軽くなるという意味で役に立つ。誇りある英断だとしても、自信が付くという意味で役に立つ。負い目だとしても、次の行動への良いストレスになるという意味で役に立つ。(ここにあげた方向性以外の役に立つもあるだろう)

何は無くとも、役には立つのだ。

さて、ここでもう一度語源に戻ろう。逃げるは恥だが役に立つを元の言語で表記すると「szégyen a futás, de hasznos」であり、それぞれの意味は接続詞を省くと「恥」、「走る」、「有用」という意味であるから、日本語のニュアンスとほぼ同義な気がする。

世界共通で逃げることは恥だとされているのなら、世界は変わる必要があるのかもしれない、と思ってこの文章の結びとしようと思う。

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

写真:暗い太陽

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