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試合に負けて勝負に勝つ、とは

ずっとこの言葉が疑問だったけど、解決したので共有したい話。

この言葉に疑問があって、試合に勝ったら自動的に勝負にも勝ってるんじゃないの? というか、こっちが試合に負けて勝負に勝ってるのなら、相手はどうなってるんだ? 相手は勝負に負けてるのか? ってなってました。ただそうじゃないこともあると知りました。

基本的に公式な大会のような場所、第三者が勝負を見届ける場所ではこのような事案は発生しない。具体的に言えば、試合の勝者は次の試合への参加権利・名声・賞金・勝利への自負などを得ていますし、敗者側も場合によっては名声・賞金・失敗経験を得ています。いわば、試合に関しては勝敗が付いてるけど、勝負面ではwin-winか勝者が勝負でも勝っている。

そこで私が体験した事案です。始めはただの雑談で気付いたら議論で、最終的に相手は討論だと思っていたのらしいのですが、そんな会話があって議題はコロコロ変わるのですが、相手は絶対的正解があってそれ以外は間違いという排他的主張が強い方で、私はどちかといえば多様性的にいろんなものを受け入れてその曖昧さに答えがあると思っていたので、真っ向から対立しました。

結果的に、相手側に結構傷つくようなこと(稚拙な発想力・親が悪いなど)を言われて、なんか悲しくなったのですが、結果的に「あなたと話した意味がなかった」と言われてしまったのです。

おそらくこれが討論とするなら、私の負けなんだと思います。ただ私はそういう発想の人間がいるということもわかったし、相手方のいうことは確かに論理的に理解できるし、正しいなと思える話でした。(私はそれを肯定したうえでこういう考えもないんですか? というスタンスをとっていたんですが、お気にめしてもらえなかったみたいで涙)

ただ私は得るものがあって、相手は意味がなかったと評価するなら、勝負には勝ったと言えるのかもなと、ふと思いました。そもそも私はただの議論だと思っていたので、勝ち負けは意識してなかったのですが、相手に言われてなるほどと感じました。

その時に表題になる言葉を思い出しました。「試合に負けて勝負に勝つ!」ああ、こういう状況のことを言うのか。

ここで話を展開させます。例え試合が一方的な展開になろうとも、拮抗して最終的に決着がついたとしても、「得るものを得ないと勝負的には敗者になってしまう」ということがよくわかりました。

試合で勝つというのは明確で認められるものであり、勝負で勝つかどうかはその経験を良いモノだと思えたか、なんだと思いました。

そういった点では自分の多様性を認める考え方って常に勝負で勝てるのではと考えました。そういう考えものあるのかってなったら、ではそれの良い所回収しよう・完全に上位互換なら入れ替えよう・自分に合わない頭の隅には置いておこう、そんな風にしておけば安定した勝負での勝ちをもぎ取れるのではないでしょうか?

逆に言えば、試合に勝利してもそれを意味のあるものとして満たさなければ、勝負には負けてしまう。試合に勝っても負けた人の考えを吸収する必要がある。

自身はこれまでの試合で勝ったり負けたりしたけど、それらの勝負はどうだったのだろうかと回想してみました。今の曖昧への美学の定着がするまで、正直試合の勝敗に関係なく、毎回のように勝負では負けていたと感じました。ただ曖昧の中に答えがあり相手を受け入れることで得られる正解を探すことにシフトしてからほぼ全勝だなと確信出来ました。

曖昧さに答えを求めた過去の自分ナイスと思いました。一応、過去記事であいまいの美学については言及しているので、この投稿と一緒にその投稿をしておきます。(リンク→あいまいの美学

まあ普通に私は負けず嫌いなので、試合にも勝てるように精進していくと同時に、勝負では必ず勝利または引き分けられるように鍛えていこうと思います。

まとめると、「なんか得ないと試合した意味がない」ってことですかね

なんか希哲学者のつもりがちょっとRoot Rat(中の人)になってしまった気がする。まあそれもいいか。

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

写真:水御籤をひくとだいたい末吉の下鴨神社

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