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そもそもそれって我慢ですか?

そもそも我慢って、別に良いことでもない話。

このタグを見て、ふと思いました。私って我慢しないといけない時にどうしてるのかなーって。自分で言うのも恥ずかしい話なんですが、自分で自分を沸点の低い人間だと思っていて、怒りの感情がすぐに出てきてしまう人だと自己評価していました。
でも、最近あんまりそれを我慢することをしてないなー。と思いました。なぜなんだろうか?

答えは意外にもシンプルでした。
「あ、これ、感情を我慢するエピソードになるな」っていう事象に遭遇したときに、我慢することなのか? って考えるようにしているからでした。
正直言えば、これは選択肢として我慢の代わりにするものではなく、我慢と言うステップに入る前に行うことでして、それが私にとっては「思考」でした。

ただこれは、我慢することでメリットがあるのか? デメリットは何か? などの我慢についてだけ考えることではないなんです。そもそも我慢っていう選択肢に疑問視をするとこから始まります。
意味わかんないですね笑 具体例を説明していきたいと思います。敢えて、しょーもない例にしますが許してください。

とある人気なレストランに行ったとします。そこで限定20食の定食を食べるのが目的でした。しかし、すんでのとこで前の客が横入り注文したことで自分が食べれないことになりました。ここで我慢するべきかどうか? いわば、その客やお店にキレるかどうかっていう話です(普通に説得するという選択もありですが)。

ここで考えるべきことは「なぜ我慢するという選択肢が浮かんだのか?」です。理由は簡単で「限定食を食べたいという欲」があったからです。この例に限らず、我慢と言うものは自分が何かをしたい! そんな「欲」がベースにあって、それが達成できないから「我慢」が選択肢として生じる。

では、その欲ってそこまで優先すべきことなんでしょうか?
この例で言うなら、よくよく考えれば出勤先の通り道で気になってただけでたまたま今回よっただけでまだチャンスがあるしなと思ったり、レビューでは限定食じゃなくてもすごく美味しいらしいからと調べてわかったり、その「欲」をどうしても達成すべきじゃない、いやもはやそれは「欲」じゃないのではと考えることもできます。

欲がなくなれば、別に我慢という選択肢が消えてなくなる。そうすれば我慢しなくていい。別にこれはこんなしょーもない例だけじゃないです。やりたくない仕事を我慢してやる場合でも、そもそも仕事って1から10まで好き好んでやるものだったのでしょうか? 意識していないだけ普段からしたくない仕事をしている。でもそれを我慢と言う意識をせずにやっているということは、今の我慢という気持ちでやる仕事も「我慢」せずにすることができるんじゃないのか? そんな風に思うのはどうでしょうか?

私は所詮は我慢とは捉え方次第なんじゃないかなと思うんです。先行投資としての我慢(印象を良くするため、技術を磨くための我慢)は我慢ではなく、一種の努力や勉強ですし、むしろ我慢だと思ってストレスをため込む方がばかばかしい。

と、文章を並べてみましたが、ここで振り返るとブラック企業の上司が言いそうなことですね笑 ただはっきり言いたいのは、何でもかんでもそう捉えて我武者羅にやるのが良いという話ではなく、「思考」というステップを踏むということなんです。

我慢と言う選択肢が上がった時に、まずはそれが我慢なのかどうかを思考する。我慢じゃなかったら、苦を感じずにやればいいです。我慢なら、我慢することでのメリット・デメリットを考える。メリット方が多ければやれば我慢してやればいいし、デメリットの方が大きければ我慢しなくていい。

日本人は「我慢」を美徳化してそれをすごいと言う人が多い様に感じます。でも、それを美徳と見なすにはそもそもそれは我慢なのかどうか、そしてするべき我慢なのかを思考する必要があります。
不快に思ったことを何も考えずにやることは「我慢」じゃない。むしろ、思考を怠った愚直な行為であり、その本質は言わば怠惰なんだろ思います。

私は誰もが思考というステップを踏むことで、我慢を最適化して行えると思います。少しタグの趣旨とはズレますが、「思考」こそが「我慢に代わる選択肢」であり、「我慢の前にすべきこと」なんじゃないかなと私は思います。

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

写真:やまみち

#我慢に代わる私の選択肢


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