情緒のある日記を書きたい②
2021/6/18
ちょっと前に、友人と「随分と日が伸びたね」って言う話をした。春から夏はあっという間に入っていくような感じで、暗かったはずの18時の空模様は今ではまだまだ明るい。でも、最近はどうだ? 暗い雲が青い空を覆って、また暗くなり始めている。
梅雨の季節はいつも美化されて描かれている。どこかで、雨の中でカタツムリが元気に動く絵を見たことはないだろうか? 雨の中で艶やかなアジサイが咲き乱れている写真を見たことがないだろうか? 絵画にしても写真にしても人は梅雨を美化して描く。
実際はどうだろうか? 雨は続いてびしょ濡れになる。洗濯物は干しにくい。湿気で暑苦しい。この梅雨に限って言えば、雨は降ったり止んだりを繰り返すばかりで要領を得ない。予定にしても体調にしてもぶっ壊していくこの梅雨をどうして先人たちは美化できるのだろうか? 気が狂っているのか、とさえ思う。
ただ梅雨が嫌いなだけで、私は雨は好きだ。雨は美しいものをボヤかすが、汚らしいものも隠す。雨の日にはカラフルな傘が街中にぽつぽつと咲いている。傘は素晴らしいと思う。機能美を追求した結果、横から見れば流線型上から見れば正円という造形美を得ている。きっと機能美と造形美とは厳密に分けることができないことを教えてくれる人類の素晴らしい発明品の一つだ。
今日は梅雨の中の1日。雨が降っている。
雨の街を歩くときは迷う。小雨を見れば、折りたたみ傘を使うかフードをかぶって強行突破か。大雨を見れば、忘れやすい普通の傘か多少の濡れを覚悟して折りたたみ傘か。人の好みがそこにはあるんだと思う。
かくいう私はちょっと小雨なら傘をささないし、フードも被らない。酸性雨なんて知ったことか。小粒の雨に少し打たれてみる。体温がゆっくり落ちていく、精神の活動が停止に近づいていく。体と心がゆっくりになっていくのを感じる。それと同時に自身の穢れが雨によって流されていくような感覚におちいる。
ああ、雨だ。
太古の人々は、雨を恵だという人がいる。煩わしいと思えるこの梅雨と言う季節も時代が変われば水に困ることがない最高の気候なのかもしれない。
雨に一種の感動を感じながら、私は道端にいるカタツムリをつついてみる。私は道端に咲くアジサイを愛でてみる。
ふーん、悪くないね。美化してるんじゃない。きっと良い所を見ようと思ってただけなんだね。さっきは悪く言ってごめんなさい。
写真:わかる人にはわかる東屋
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