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ザクロ「ここで働かせてください!」

 私はいったい誰にだったら心を体を解放できるのだろう?その謎は解けなかったが、恋愛もセックスも知らない、そのことに劣等感を抱いて足元を掬われているダサくてカッコワルイ自分を私は嫌いだった。
こうやって立ち止まっている時間がもったいないから進ませて。

 南口の生垣が今年も甘く香るので、立ち止まっては嗅いだ。いい匂い。この白い花はなんと言う名前だろう。まだ知らない。あたしは駅ビルの、大きな本屋に寄った。
 植物図鑑の樹のページ、六月の開花で白い花、どうやらクチナシだ。生垣のクチナシは花びらが多い八重。また一つ花の名前を覚えてうれしい。これからは、今年もクチナシが香っているなと思って歩こう。一重のクチナシの実は、たくあんや栗きんとんの黄色い着色に使うという薀蓄もおもしろい。
ほんとうは、図鑑を見に来たわけではない。昨日の夜、大きな本屋に専門の求人情報誌が置いてあることを思い出したから。「仕事が終わったら帰りに寄ってみよう。まぁ、とりあえず。まだ解らないけど」そう思っていたのだ。
 図鑑を戻して、雑誌のコーナーへ向かった。フーゾクの求人情報誌が堂々と置いてあるのだから、最初の一歩はなんだか簡単だなと思った。
「高収入」その派手な表紙を家に帰ってめくってみた。駅のエリアごとに分かれてぎっちりとお店の情報が載っている。「おもらし」とか「母乳」とか、さまざまなテーマのお店があり、こんなことがお金になるんだ。人間って変な生き物だと思った。
どの求人も、一日にいくら稼げるかが大きく書いてある。その中から、裸にならなくてよさそうな店を探した。自分の体がみすぼらし過ぎて脱ぐのは無理だ。何件かに付箋を貼って連絡をした。
 まだ、わからないけど、面接だけでも行ってみよう。

 求人誌を切り抜いて、畳んでお財布に入れた。最寄り駅について電話を入れ、辿り着いたのはレンガ色の大きなマンション。求人には「簡単なマッサージだけ」と書いてあった。実際はどこまでするのだろう?と疑いながらもチャイムを押す。
仕事の内容よりもまず、店の男性スタッフが胡散臭かった。二〇代であろう彼は気だるそうな顔で、廊下を歩く足取りも鈍かった。私はリビングに案内された。
使われていないキッチンのシンクに殻のペットボトルが散らり、黒いカーテンのひかれた殺風景な事務所。
彼はラミネートされた料金表を示しながら店のシステムを話していたが、私は聞いていなかった。彼の話し方はやる気がなくて、顔を覗くとつまらなそうなそうで、私のことなど目線にはいっていない。彼の銀縁メガネの金属と同じ冷たさを感じた。
「新人はまず男性スタッフと講習をするんだけど、今俺しかいないんだよね」と言うので、私の頭の中で警告音が鳴った。そんなの絶対に嫌だ。彼にとって都合のいい話である。
「すみません、少し考えます」と言って連絡先に適当な嘘を書いた。
安心させるためなのか彼は「ここで働いている女の子」と言って、お客さん用のファイルをガラスのテーブルに置いた。私はここでどんな子が働いているのだろうと見たくなってファイルをめくった。私と同じ、若い女の子たちが下着姿で写っている。その中で、ユイ十八歳という美少女が微笑んでいる写真に目が留まった。私は、こんなに可愛い子が、ここで働くことが不思議で、彼女がこっちの世界で見ているものを私も見たくなった。
女の子たちは何のために働くのだろう?
どうして性がお金に換わるのだろう?
どうして一八歳から働けるのだろう?
怖いという気持ちより、知りたい気持が膨らむ。

私は海を見たら飛び込まずにはいられない。そんな子供だった。日に焼けるとか、皮がむけて痛いとか、クラゲに刺されるかもしれないとか、そういうことは気にしないで。
小学生の時に行った伊豆の海は、磯のある岩場で、フナムシやクモヒトデなどはじめて見る知らない生き物がたくさんいた。下手に歩くとフジツボやカメノテなどでケガをするし、コケや海藻で足を滑らせることもある。その磯場を越えて、綺麗な海に向かう。自分の感覚だけを頼りに冒険するのは勇気がいることだ。しばらく進んで透き通る海を見下ろすと、足元をたくさんの魚が泳いでいた。色鮮やかな世界。ここまで進んで来た私しか知らない。そんな勇気がある自分が好きなのかもしれない。
 
 家に帰って、私はもう一度、求人情報誌を隈なくチェックした。
「求む、マジメでフツーの子」「容姿スタイルに自身のないコでも、性格のいいコなら大丈夫!」と言うコピーと、ほんとうにフツーの女の子の写真を載せている店があった。
マジメでフツー、私の事だ。容姿スタイルに自信のない子、私でもいいかな。
 SMクラブとは、どのような仕事をするのかよく解らないけれど、女王様なら脱がなくていいかも知れないと思ってSMクラブ・ザクロと言う店に面接に行った。

 その店の最寄り駅は、私鉄や地下鉄への乗り換えがある大きな駅で、たくさんの人が行き来している。商業施設の並ぶ出口の改札へ人が流れていく、その反対の出口へ向かう。パン屋さんやカフェの前をとおり、地下道を抜けて地上へ出た。
駅ビルの上から初夏の太陽がギラリと照らす。都会のど真ん中のこもった暑さに汗かきの私は汗を拭った。
電話で教わった水色の建物の前についた。八階建てくらいの細長いビルの名前を確認する。雪月花ビル。
階段で四階へ上がると、黄色く目隠しされたガラス戸があった。ここかな。私は自動ドアの前に立った。
 ドアが開くと白いシャツを腕まくりしているお兄さんがいた。その後ろにずらりと並ぶビニールがかかった服。クリーニング屋さんみたいだ。
お兄さんは受付の受話器を耳に当てたまま、にこやかに「待っていて」と手で示した。
私は会釈して、じっくりと店内を見回した。
白い壁に開け放された窓から光が射し明るかった。外からは日常的な電車の音が聞こえる。求人を見て電話した時と同じ、受付のお兄さんは明るい声で話している。
「ごめんね~、一人しかいないんで。そこに座って待っててね」
とニコニコ。また電話が鳴る。お客さんも入ってきた。忙しそうだな。私は窓側の椅子に引っ込んだ。
お客さんとの会話は丁寧で腰が低い。
私は安心して、小さな丸いテーブルに置いてあった店の女の子の写真をめくった。
手錠をはめていたり上半身を縛られて写っている女の人は、年上の人が多く、太っている人や、凄く痩せている人もいる。若い女の子もいるけれど、私のほうが可愛い。ページを最後までめくり、この店だったら大丈夫。と、変な自信をつけて待っていた。
「お待たせしてごめんね。僕は受付の山本です。今、僕一人だから、電話に出なくちゃいけなくて。もうすぐオーナーの小島さんが来るから、それまで少し待っててね」
山本さんは私の目をちゃんと見て、風通しの良い話し方だ。
「あの、女王様やりたいんですけど、私でも出来ますか?」
「あ、そうなの~。うちはあまりMのお客さんがいないから、女王様の仕事は入らないんだよね。M嬢のほうが似合いそうだけど、どうかな?」
「M嬢ってどんなことをするんですか?」
「お客さんに攻められたり、奉仕したりするんだよ」
「脱がないと駄目ですよね」
「うん、そうだね」
私は迷っていた。
「普段は何してるの?」
山本さんは世間話をはじめる。
「平日は仕事をしています」
「そうなんだ。ここで働くとしたら、平日の夜か、休日かな。どちらでも自由に働いてくれたらうれしいよ。休める日が少なくなっちゃうけど大丈夫?」
「働くのは好きなので大丈夫です。平日の仕事終わりにキャバクラで働いていたんですけど、眠いしいろいろ疲れちゃって。もしここで働くのなら土日がいいです」
「そっかそっか、夜はちゃんと寝たほうがいいもんね。今は、お休みの日は何してるの?」
「バンドの練習か、ライブとか、映画とか演劇とか見に行っています。あとは美術館が好きです」
「アート系なんだね」
「そうですね」
「バンドはどんな音楽やってるの?」
「ロックが好きなんですけど、ただ好きなだけで。友達のバンドでドラム叩いてます。でも、もう辞めようかと思ってて」
「女の子のドラム、かっこいいじゃん。どうして辞めちゃうの?」
「友達が自分の家の近くのスタジオ借りて、遅くなっちゃったからうちに泊っていきなよ、とかいうのが嫌で。私は音楽がやりたいだけなのに、なんかもう、面倒くさくなっちゃいました」
「そっか~」
「私のこと何にも知らないのに、セックスすれば成立すると思ってるんですかね」
「そっか。バンドに人間関係のいざこざは持ち込みたくないよね。僕はこう見えてビジュアル系バンドやってたんだよ」
「え、ボーカルではないですよね?」
 山本さんはさっぱりとした短髪で、丸い面持ちは食材で例えると男爵イモみたいな親しみ易さがある。そんな彼からはビジュアル系が想像がつかないので笑ってしまった。
「ボーカルは無理だろって思った?ベースだから安心して」
「ベースだとしても、雰囲気がビジュアル系じゃないですよね」
「音楽が好きなんだから許して~」
それから、山本さんのバンドの話を聞いて、映画の話になった。
「映画は何が好きなの?」
「映画は実話を基にした話が好きで、今はシャーリーズ・セロンの出てる映画をいろいろ見ています。シャーリーズ・セロンはいい映画に出てるんです。あとはオリバー・ストーン監督の『ナチュラル・ボーン・キラーズ』みたいなブラックユーモアのある映画が好きです。山本さんのおススメありますか?」
私はちょっと語った。
「そしたら、『時計仕掛けのオレンジ』も好きだと思うよ。スタンリー・キューブリックの。これおススメしとく」
私は映画の情報を仕入れたので手帳に書いた。
「見てみますね」
音楽や映画の話ができて、打ち解けていた。
 店長の小島さんがやって来た。
「ご苦労、ご苦労」
パーマをあて紫のグラデーションがかった眼鏡をしている、おばちゃんが陽気に登場したので私は驚いた。
「はじめまして、宜しくお願いします」
 私は偽名の履歴書を渡した。
オーナーは一瞥して、あら、ずいぶんロリロリな子が来たね、もううちで働くって決めたの?」
「すみません。まだ、決めてません」
「何が心配?親御さん?彼氏がいるとか?」
「それは、いいんですけど、自信がないですね」
「何に?プレイ?プレイはね、最初はお客さんに任せて初々しくいけばいいの。素人っぽいのがいいよ」
「そうなんですね。うーん」
人に裸を見せたことがない私は、脱いだらどんな感覚になるのだろう?戸惑っていた。
「働いてみたらわかるよ、色々なフェチの人がいるんだから。変態はいるけど、悪い人はそんなにはいないわよね。ね、山本君?」
「そうですね、危なそうな人は僕が追い返すから」
「そうなんですか」
「山本君は人を見る目があるから」
私は一番気になってたことを聞いた。
「新人講習はしなくていいのですか?」
「誰がするの?ハハハ、山本君?」
「まさか~」
山本さんと小島さんが顔を見合って笑っているので、私はすごーくホッとした。
 「明日から働きます!」私はこの店なら働きたいと思ったのだ。
 ここまで来たら、自分がどうなるか見届けたい。実験的な好奇心が勝ってしまった。