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生きる理由がない

いったい世の人は、どういうモチベーションで今日も生きているのだろう。

■やり尽くした感■
義務教育で決められたまま学校へ通い、就職できるよう短大までは出て、卒業する頃には氷河期と言われたけどなんとか正社員で入社するも不景気の煽りで会社がなくなって何度も転職したり、紆余曲折したけどなんとか結婚前に奨学金も完済した。

そろそろタイムリミットも近いぞと親からせっつかれ始めた30歳手前に、それなりに甲斐性のある人がタイミングよくプロポーズしてきたのでこれ幸いと一緒になり(他人に恋愛感情を持つ事がないので嫌いでなければ付き合える)、ホルモンバランスが悪くなかなか思うように行かなかったけれど不妊治療の末なんとか一人娘を授かり、その娘も小学校入学前に発達障害と診断されいろいろと不便な面はあったけれど周りの助力があって小学校を卒業できた。とはいえ自立までは時間がかかるし、まだまだ見ていておぼつかない部分は多い。が、お互い子離れ親離れに入る時期なので、この先は意識的に手を離していく機会のほうが増えるだろう。
子供の人生は子供のもの。私がコントロールできる範疇ではないと心得ている。

今月で45歳。社会から課されていたタスクはある程度やり尽くしてしまったと思う。
老後の2000万円問題は無理ゲーな気がしても、後は老後どうつつがなくやっていくか、いわゆる”終活”に入っていくのだろう。
ここまできてふと考えてしまった。
長く生きる必要あるだろうか。

■趣味は時間の無駄?■
『余裕があるからそう考えるんじゃないか』と思われる部分はあると思う。
漠然とした将来への不安は常にあり、今年に入って起こったコロナ禍でさらに増してはいるが、今すぐ食べるのにも困るというくらい切迫した状況とは言い難い。
幸いバイト先も今の所は無事稼働しており、少しだが安定した収入が確保されているのはだいぶ心強い。
娘もベッタリという歳ではないので自分に使える時間が増え、その分趣味に回せるようになった。
それはそれで楽しく充実しているし、逆になんの不満があるのかと言われれば反論できない。

特に絵を描くのが好きで、数は多くないが時間があれば描いてSNSにアップしては楽しんでいた。特に描いた絵に反応はないが、描くのが楽しいので満足していた。他の人の作品を見ることも多かった。上手い人が多い。

そんな中ふと、思ってしまった。
こんなに描く人がたくさんいるなら、私が描かなくてもいいのでは・・・?
他の上手い人、これから上達する伸びしろのある人、若くて描く事に夢を持つ人がどんどん描けばいいのでは、と。

正直、自分が今から描き続けても何か役に立つとは思えない。
今やるべき役に立つ事をした方がいいのではないか、と。
描いていて楽しかった時間が、とたんに時間を無駄にしている罪悪感に変わってしまい楽しめなくなった。

■無駄なことは悪なのか■
何も絵を仕事にするだけが描く理由ではないと思う。
才能のある人しか描いてはいけない法律もないし、その才能とやらは誰が判断するのか。
わかっているのに、一度考えると抜けられなくなってしまった

するとこの考えが他にも連動しているのか、次第に『私が長く生きるのは生産性が悪いのではないか』という考え方にシフトしていった。
生理が止まりこれ以上子供も産めず、社会に貢献するような活躍もなく、寿命が尽きるまで消化するだけの人生・・・。
めちゃめちゃ無駄じゃないだろうか。
罪悪感を抱えて生きるなら早く死にたい。軽く考え始めた事が、気づけばそこまで行き着いてしまった。

なぜそこまで行き着いてしまったのだろう。
今まではどうだったのだろう。
気持ちの変わるきっかけを辿っていくと、どうも主人が自営を始めて在宅時間が増えた頃から息苦しさを感じるようになり、今年初めの自粛が始まってから閉塞感がより強くなった気がする。

何か、家にいながら“世間の目”を感じるようになったのだ。
元々主人は常識家で、いわゆる世間並みの意見を一番に重んじる方だ。
自営を始めて家にいる時間が増えた頃、子供が学校に行った隙間を見つけて絵を描いていたら怪訝な顔でこう言われた。
「それやって何かなんの?もっと金になる事しろよ」

自分が稼げなければ一家共倒れになるプレッシャーはあると思う。絵を描かない人なので描く気持ちがわからないのも当然だ。だが私はショックを受けてしまい、主人のいる前で趣味や自分の楽しみをするのは避けるようになった。
2人で家にいても間が持たないのでなるべくバイトを入れるようになったのだが、以前から投稿しているように仕事の能力が高くないので働くのが楽しいとも思えず、外でも家でも緊張する事が多くなった。
無駄な事をしたらまた何か言われるかもしれない。

あれから時間が経ち、主人の仕事も増えていき家にいる時間も減ってきたので、また一人の時を見計らって絵を描き始めた。やはり楽しくて気持ちが上を向いた。下手だけど、描きながら新しい知識を得たり、少しでも上手くなれば嬉しかった。

それが今年の自粛で主人の仕事が減り在宅時間が多くなり、また何か言われるかもと気になり始めた。実際には何も言われてないのだが、たぶん私は主人の目を通して、自分が思う世間の声を感じていたのだと思う。

■生き甲斐と生産性は別物■
誰かからハッキリ言われた訳ではないが、常に意識の底に「社会が認めた事以外は罪悪」という概念があった。
だからこそ、若いときから自分がしたい事より『社会から課されたタスク』を優先してきた。
タスクが必ずしも自分が望んでいる事ではないので楽しくはないが、やり終えるとノルマを終わらせたような安堵があった。まだやり終えてない人と比べて優越に浸るような、下卑た快感もあった。

やっとタスクをある程度終わらせて自由に生きられるかと思いきや今度は「やる事がない」。
いや、やりたい事はあるのだ。ただ、社会のタスクとは違うので、やってはいけない事のようになり罪悪感を感じる。

だからと言って、自分の気持ちを押し込んで宙ぶらりんのまま長く生きる気になるだろうか。

私はずっと、生き甲斐と生産性は兼ねていなければいけないと思いこんでいた。
役に立たない事は、楽しくてもやっていても意味がない、罪悪だと。

だが、生きる気力になるものは必ずしも役に立つものばかりではないのではないか
無駄と思われる行為の中に、活力を生み出すヒントがあるのではないだろうか。

ただ描くだけで楽しかった時間が、自分にそう知らせてくれているのではないか。

このまま「無駄だからやらない」では、いずれ自分の首を締めてしまう予感がする。

「そんな大げさな」と笑われるかもしれないが、こういった積み重ねが自分を救うかもしれないのだ。忘れないようにしたい。

そしてまた、気持が復活したら少しづつでも絵を描いていきたいと思う。

絵が難しくなったならまた別のことを、とにかく生産性など気にせず探したい。