見出し画像

~つれづれ読書感想文④~ミクシィページより

「ワンピース世代」の反乱、「ガンダム世代」の憂鬱 鈴木貴博著 朝日新聞出版{社会}
企業社会の矛盾に反旗を翻す「ワンピース」世代に、タテ組織に縛られ続ける「機動戦士ガンダム」世代はどう立ち向かうべきなのか?
 
自由と仲間が最重要な、「ワンピース」世代の20代。理不尽な組織から逃れられない、「機動戦士ガンダム」世代の40代。2つの世代の対立と解決策を説く。

世代間闘争はより熾烈になっていくに違いない~ピーター・F・ドラッカー
 


帯から抜粋。この本でのガンダム世代は(1960~69年生まれ)、ワンピース世代は(1978~88)という設定がなされている。
ここで大事なのは、成長期に何が起こったかということで「世代」を設定していること。「ワンピース読んだ??」と教室で会話された年代と、家で一人読んだ年代は違うということ。
世代を理解するために次のようなフレームが作られている。
少年期(9~12才)人生観に影響
テイーンエイジ(13~19才)行動規範の原型
青年期(20~23才)行動規範の完成

ここに、1962年生まれの人格形成に影響を及ぼしたものとして出来事をあてはめてみると・・・
人生観に影響・・・オイルショック、ゴジラ対ヘドラ、大鵬・長嶋引退
行動規範の原型・・・ロッキード事件、キャンデイーズ、ピンクレディ、ジョンレノン暗殺
行動規範の完成・・・東京デイズ二ーランド開園、マハラジャブーム、新人類革命

1982年生まれの人をあてはめてみると、
人生観に影響・・・バブル崩壊、就職氷河期、スーパーファミコン
行動規範の原型・・阪神・淡路大震災、北拓破綻、山一廃業、9・11アメリカ同時多発テロ
行動規範の完成・・・日韓ワールドカップ、i モード、携帯ブーム、ライブドアショック


そして創造主は年上ということも妙に納得した。ある程度、全体が見える必要があるからだと思う。


さて、漫画「ワンピース」の作者である尾田栄一郎は1975年生まれである。22才のときに「ワンピース」の連載をはじめた。本書の定義によるワンピース世代によるワンピース世代よりも3歳年上ということになるが、その年代の微妙なずれは時代の創造主であるから当然のことである。
 彼が若かりしころの世相はバブル崩壊や阪神・淡路大震災といった点でワンピース世代とほぼ被るが、それらの時代を駆け抜けながら、自由と仲間というワンピース世代の価値観を提唱してきたのは、尾田の創造力と筆力である。
  バブルと災害以外に、尾田と同年代のテイーンエイジに関して特筆すべき事象を2つあげることができる。ひとつはポケベルであり、もうひとつはファミコンだ。
  1975年生まれの世代にとって、17歳の頃はポケベルまっさかりであった。ポケベル以前の高校生は帰宅すれば自分の部屋で「個」として漫画をよんだりゲームを楽しんだりという生活しかできなかったが、ポケベルの出現で、帰宅後も比較的自由に仲間とメッセージを交換できるようになった。現在のように携帯が普及してメール交換で世界が成り立っている時代から考えると、とてつもなく昔のことのように思えるが、確かにテイーンエイジにとってそのような時代が存在した。
  ポケベル以降は帰宅後も友人たちと連絡を回しってファミレスに再集合したり、休日の外出中でも呼び出しがかかるといったようにテイーンエイジの生活が変わった。一言で言えば、仲間との過ごし方がこの世代を境に質的に変化したのである。
  いつでもコミュニケーションできるし、いつでも集まれるのが仲間。
  これはそれ以前の世代から考えるとある意味相容れない常識である。それ以前の世代であれば、帰宅後は自分の時間であって、そこに呼び出しがかかるのは非常識である。おじさん世代にそのような常識が強くあったからである。(「ワンピース」世界の創造主の世界観より)
  

麦わらの一味のなかでも重い過去を背負っているのは考古学者のニコ・ロビンだ。彼女は世界政府が成立する経緯でもある禁じられた歴史を研究しようとして、海軍ごと消し去られたオハラという町のただ一人の生き残りである。8歳にして考古学を極めた天才少女。政府が知られたくない歴史に迫る知識を持つロビンには多額の懸賞金がかけられ、その後の20年間、彼女は人を裏切りながら逃れ続けてきた。
 ルフィたちとは一時は敵として対峙したロビンだが、同僚に裏切られて死にそうになっているところをルフィに助けられた。
  そうして麦わらの一味になったロビンはやがて政府の手が迫る。政府によっての危険人物であるロビンを消し去りたい海軍の諜報機関は、ロビンに接触し政治取引をもちかける。そしてロビンは政府が麦わらの一味を抹殺しないことと引き換えに、自分が政府に捕らえられ脱出不可能の海底監獄へ投獄されることを選択する。
  ところがルフィたちはそのロビンの自己犠牲の態度を許さない。彼女を奪還するために立ち上がり、世界政府へと宣戦布告をすることで仲間に対する自分たちの考えのゆるぎなさを信じることをロビンに対してもつきつける。(略)
  客観的に読み解くと、ロビンがつきつけられていた選択は、ガンダム世代が現実世界でつきつけられている選択に近い。ロビンが背負う過去が重いというのは8歳のときに故郷のオハラが消滅して以降、「お前は生きていてはいけない人間だ!」といわれ続けてきたことにある。世界政府との取引は「自分が生きていくことをあきらめることが組織のプラスになる」という判断であり、全体最適のためのあきらめをロビンは受け入れようとしていた。これはまさにガンダム世代的な自己犠牲の行動である。
  それに対してルフィはロビンに自分の本当の気持ちを言えと迫り、ロビンは涙を流しながらそれまで言うことができなかった「生きたいっ」という声を振り絞る。組織から「お前はいらない人間だ」と迫られることの多いガンダム世代にとって、このシーンは心に突き刺さるシーンである。(略)
  が、しかしワンピース世代の「ワンピース」ファンにとっては仲間を守る、自由に生きるというあたりまえのことなのになぜこれだけ回りくどい行動を取るのか「ロビンの本意が分からない」という反応になる。
  ガンダム世代には「本当は生きたいのに社会のために死ななければならない」という図式は理解できる苦悩なのであるのだが、ワンピース世代にとっては「本当は生きたいのだから生きればいいだけのことだ」ということになる。この違いを理解することは重要だ。自由と仲間が第一規範で、所属する組織の利益は第二規範でしかないという行動規範を身につけているワンピース世代にとっては、たとえその組織が国家であれ世界政府であれ違いはない。
  自分の気持ちに対して真摯であるべきで、仲間に対してもゆるぎない信頼を持つべきだと考える若者たちは、この第41巻のエピソードについて、社会の自分という立場で苦悩してしまう中年層ほどには感動しないのである。(ガンダム世代に刺さる「ワンピース」のエピソードより)

 ファーストガンダムから30年たった今でも、思うだけでは相手には伝わらないのだ。
にもかかわらず部下に対して「オレの口に出せない心を感じ取ってくれ」と願いアムロのように念波を送るガンダム世代上司は、結局のところオールドタイプ人類なのである。
 それに引き換え、「互いの思考を理解して共感できる」という点では、ワンピース世代の若者の方ははるかに優れた能力をもっている。
  ワンピース世代の若者は仲間とのコミュニケーションに優れている。それは決して「思う」ことで自然に共感できるのではなく、「思ったことを仲間に対してストレートに言葉にする」ことで互いの思考を理解し、共感しているのだ。
  テイーンエイジ時代を通じて手にした携帯が、そのようなコミュニケーションを日常的なものにした。さらに彼らが20代に入り社会人になったころから世の中に浸透していったSNS
が、さらに洗練された仲間とのコミュニケーションを可能にした。
  これらのツールを駆使して日常的に経験したことや、そのときに感じたことが仲間にもストレートに伝わる。(ガンダム世代のニュータイプ願望と、ニュータイプに進化できたワンピース世代)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ガンダム世代は縦社会の住人、ワンピース世代は横社会の住人だということらしい。ただ、ワンピース世代もタテ社会が理解できないのではなく優先すべき枠組みが「横」ということらしい。ただ、私は「ワンピース世代」が理解できない。マイルールをつくる世代。「自由」を優先しているはずなのに極めて常に「仲間意識」に基づいて行動しているように思うのだ。「共感」なくしては、行動できない妙な集団に見えてしまう。ネオ国家主義というか「戦前」の感覚があるように思う。
ガンダム世代の方がまだ分かりやすい。
私は、「アウトサイダー」目線で物事をみてしまう。おそらく、この先も変わらないだろう。中にいる「いごこちのよさ」をあまり経験していない。
きっと、この世代論も、その世代の真っ只中にあればピンとこないであろう。世代というのはきっと自分が属するであろう「世代」に対し、外からものを見る感覚がなければ自分の世代を客観視できないであろう。そのことを考えると、自分の感覚は「世代論」のどの感覚とも違い、ものすごく寂しい人間であるように感じるのだ。
そして「私って寂しい人間だなあ・・・」という私がたいして「寂しい」と思っていないことが、寂しい。(どこか欠如している人間なのではないかな~と自分で思う)

ガンダム世代の著者。「ワンピース」のロビンの物語が大好きな模様。

 
2011年6月30日初版発行。
2014年12月20日 17:32

僕はいかにして指揮者になったのか 佐渡裕著 新潮文庫 {クラシック}
日曜朝の顔としておなじみの佐渡さん。彼の一生懸命に体を動かす指揮姿は好きだし、音楽における考え方は好きなので、本を手にした次第。(仲のよい音楽家やら、細かい人となりにちょっと違和感はあっても、基本的に好きな方です)

彼はバーンスタインの最後の愛弟子だといいます。「オレはジャガイモを見つけた。まだ泥がいっぱいついていて、すごく丁寧に泥をおとさなければならない。でも、泥を落としたときには、みんなの大事な食べ物になる」と、彼に言われたとか。この話は有名で阿川佐和子さんの番組でも佐渡さんは語っていました。

バーンスタインは「毎日、食べるもの=じゃがいも」という意味でいったのではないかと、佐渡さんが語っていました。毎日あきずに聴ける音楽が作れるよ。という意味だと思うと、とてもありがたい言葉ですよね。師からもらった宝物の言葉なのではないでしょうか?

さて、佐渡さんの指揮者になるまでを書いたものですが「小澤征爾」ってすごい人だな~と思いました。音楽評論家にはあまり評価されていないけど、オザワはすごい!!指揮者というよりもっともっと広い意味で。

オザワさんがあっての「日本人指揮者」なのかもしれません。すっかり「オザワ」さんのファンになってしまいました。

佐渡さんの話ですが、コンクール事情とかバーンスタイン、オザワさんのことが書いてあって面白かったです。


1995年7月、はまの出版より刊行された「僕はいかにして指揮者になったのか」に加筆し、2001年6月、新潮oh!文庫として新潮社より刊行された。
2010年9月1日発行。
2014年12月14日 00:45

続クラシック迷宮図書館~音楽書月評2004-2010 片山杜秀著  アルテスパブリッシング{クラシック}
音楽書評の続編。無印より、よりマニアックになっています。

  
四半世紀ほど前のことだ。東京芸大から女性のトロンボニストが出た。(略)著者によれば、調査対象とされた1世紀のあいだにドイツ語圏に出現したと確認しうる女性金管奏者はわずか5人にすぎない。いないも同然だ。そのうえ実は金管に限らず木管でさえ女性が吹くことは特異な例外だった。わけは?肺活量うんぬんの身体機能との関連ももちろん無視できない。が、ここでそれ以上の理由と目されるのは、管弦楽を吹くと口元が歪むことだ。女性は淑やかで静かな微笑をたやさないようにすべきなのだから、しかめっ面になる楽器など吹いてはいけないのだ。
 それからもうひとつの重大な理由もあると著者はいう。人前で管楽器をくわえることは、例えばバナナをほおばることに通じる。(略)
  すると弦楽器ならいいのか。いや、少なくともヴァイオリンやチェロの類は女性の弾くものとして好ましくなかった。ヴァイオリン属の形状はとくに胴の誇張されたくびれゆえに、理想の女体を象ると観念されてきた。それを男性が弾けば女体を抱くことに通じて自然だが、女性が弾くと、女陰を象る相撲の土俵に女性が入るのと同じく同性愛になってしまい、よくない。おまけにヴァイオリンをソロでとなると、立ち上がり大きな身振りで奏でることになるが、女性がそんな振る舞いをしてははしたない。ましてやチェロとなれば楽器を足ではさむ。人前で股をひろげる。論外だ!ブルジョワ道徳からいって婦女子の風上にもおけない!
 そう、西洋近代における楽器と女性の話は、結局どこまでいってもブルジョワ道徳の問題なのだ。18世紀後半から西洋音楽の担い手となったブルジョワの理想は、聖なる家族像の建立である。(楽器と身体~市民社会における女性の音楽活動 フライア・ホフマン著 ~乙女はなぜ尺八を吹かないのか?、より) 


↑大好きなチェリスト、デュ・プレの演奏姿を写真で見たとき、なんとなく違和感があったのですよ。それは、楽器と「女性」の関係からだったのですね・・・・実際、女性は大きい楽器が弾けないなんてこともなく、ピアノ曲だって、ベートーベンソナタをがつがつ弾いたっていいと思うんですよね。クラシック界でそれを求められていないのって、きっと「ジェンダー」問題からきているのかもしれません。「誰だ、ベートーヴェンは女性は弾けないとかいったやつ!!」
  女子は、ショパンやらドビュッシーやらを弾いたり、足元が見えないハープが推奨される。「愛子様が、触った楽器は「ハープ」でなければならなかった」という記述に納得。「乙女の祈り」を小学校のとき男の子が弾いてたけど、なかなか素敵でしたよ。今になって思えば、なんていい子だったんだろう・・・と。(かわいい子やね~)
 土俵と女性問題。昔、女性官僚が「なんで土俵に上がれないんだ」とか言ってたけど、そういうしきたりがあったんですねえ。当時は「そりゃ~、しきたりだからでしょ?」と、思ってたけど・・・(女陰ってなんか卑猥ねえ。)「なぜ上がれないんだ!!」とか言ってた官僚に対して「じゃあ、尼寺を男性に開放するつもりなのか?」と言ってやりたかったんですけど、どこに行ったのかしら??
 クラシックは基本的に男性優位。フェミニズム的な視点から、音楽を排除したらどんな音楽もなくなっちゃうと思うんですよ。伝統文化も基本、そうだよね。
  ジェンダー論的なものもありつつ、正式でない場では、何でもありだと思います。というわけで、私はがつがつピアノを弾きます。ヴァイオリンだって弾きます。が、対外的にはピアノで「ショパン」を弾きます。良家の子女ですから・・・・(笑)


20100331初版発行。
2014年12月13日 22:56

クラシック迷宮図書館~音楽書月評1998-2003 片山杜秀著 アルテスパブリッシング {クラシック}
音楽書の書評です。3ページ弱にまとめられていて、おもしろかったのですが、ある程度知識が要求され、著者や本の内容によっては「なんのこっちゃ?」ということがおこります。ので、前述の著のほうが読みやすいです。
  興味のある章はおもしろいのに、ないと全くわからない。懇切丁寧に解説もしてくれないので、わからない文は全くわかりません。
 この方、あの許さん、宮崎哲弥さんの先輩であったらしい。で、大学時代に「クラシック音楽の愛好家のクラブ」に入っていたらしい。合宿まである・・・・(笑)
 こういうのを聞くと「クラシック好き」って「ムラ」というか狭い世界だなあ・・・なんて思うわけですが。。。。それでも、この方の知性は「ムラ」独特の感覚を感じさせないので好きです。

さて抜粋です。

人間は聖なるものもの、超越的なもの、絶対的なものを、心のよりどころにしてきた。そして、そのよりどころの役目を長いこと引き受けてきたのが神である。
 が、残念ながら神ってやつは、その実在の客観的証明がなかなか困難。そこでヨーロッパにおいては、科学的やら客観的やらという言葉の錦の御旗に掲げる啓蒙思想や革命思想が、神の存在を否定しにかかった。
  とはいえ、そうなっても、人間が聖なるものや超越的なものを求めることにはかわりはない。啓蒙思想の類は、それが抹殺した古い神に代わる新しい神を人々に提供してやらねばすまなくなる。
  なら、その新しい神とは?19世紀クラシック音楽、とくに交響曲の分野だ!この万人向けの入門書の体裁をとった、しかしじつはまったく偏向した音楽史哲学の「洗脳の書」というべき本は、かく断言する(「クラシックを聴け!~お気楽極楽入門」許光俊著  の書評。ほんとうは深刻な「お気楽入門書」より)

↑「洗脳の書」・・・・そう書いていただいてありがとう!!

著者はまずピアノ奏法を、指先で鍵盤を叩く「曲げた指」派と、指の腹で鍵盤をなぞる「伸ばした指」派に二分する。一般的には、前者はベートーヴェンのごとき音の粒々をきわだたせたい音楽に、後者はショパンやドビュッシーのごとき音の粒々をきわだたせたくない音楽に、より向くと考えられているだろう。が、著者はこの2つを対等に扱わず、「曲げた指」を力ずくの打鍵に傾きがちで、手に故障を招きやすいものと低くみ、「のばした指」を手首の柔らかい回転を軸に全身を楽に使う、故障もまねきにくいものと高くみる。そして日本での「伸ばした指」派の最高のピアニストこそ安川加寿子(1922-1996)だったとする。(翼のはえた指~評伝安川加寿子 青柳いずみこ著 の書評。安川加寿子を見くびるな、より)

↑これね、芸能人とか、シンセサイザーを弾く人とか「伸ばした」弾き方をする人が気になってた。私はなんの疑いもなしに「曲げた派」です。正式なピアノ教育では当たり前だと思っていたのですが、まさかクラシックの方で、「伸ばした弾き方」をする人がいるとは・・・・。そもそも、「曲げた派」が多数なので「曲げた派が故障しやすい」というのは、短絡的では??私は、長時間弾いてきましたが、故障はしなかったし手首を使ってきました(この文章では、曲げた派が手首を使っていないように読み取れてしまうのですが、片山さんの文章のせいでしょうか?)さて、「伸ばした派では強音がでない」という反論に対し、強音を出す「アルゲリッチ」をあげているとか・・・・
 で、私は確信を持ちました。やはり「曲げる」のが正しい!!と。そもそも、私がアルゲリッチを嫌いなのって「リズムがおかしい」「なげやりなタッチ」「音に芯がない」からです。これはまさに「伸ばして」弾いているからではないだろうか?指の形によって、神経からの伝達のタイミングがずれるだろうし、芯がないのは「音をあてていない」からです。
 図らずも、私のなんで苦手だったかの疑問が解消されました。指をべったりするのに、向いているのは電子機器だと思うので、ある意味、弦楽器のピアノはちゃんとはじいて欲しいなあ・・・・と思うのです。
  「曲げた指で」がつがつ弾いてもまったく故障しないと思います。それは「叩く」という感覚を使っているからです。力ずくじゃなくてもけっこう大きい音出るはずですが・・・・。
まあ、私はドビュッシー弾かないので分かりません。ドビュッシー的には「伸ばした」方がいいのかもしれませんが・・・・

書名にある「不思議な国」とは日本のこと。つまりこの本は日本なる「不思議な国」で、西洋クラシック音楽の背骨がいかに歪められているかに迫らんとする。
 ではそもそもクラシックの背骨とはなんぞ?鈴木はそれを「エロ」と「オレ様」のたった二語で整理する。「エロ」とはおもに和声の推移から醸し出される気持ちよさをさす言葉。「オレ様」とは西洋クラシック音楽がいわゆる近代的個の主体的叫びなのだといいたいがための言葉。ようするに個がハーモニーをともないつつ我を張ってみせるところに、クラシックの精華があるという話だ。(不思議な国のクラシック~日本人のためのクラシック音楽入門 鈴木淳史著 の書評。「オレ様」のいない国で、より)

↑「エロ」と「オレ様」とはよく言った!!実際そうだと思います(ついでに美術史も)近代思想は西洋哲学とは切っても切れない関係になっていて、まあ「ニーチェ」哲学ですよね。あのあたりに影響されたダンディズムな音楽や美術、文学は好きではないんですよね~。芸術に思想を持ち出すのってあんまり好きでない。私は断然「エロ」な芸術が好きだ。原始的な踊ってるうちになんだか「楽しい」という音楽とか・・・。なんかの思想と結びついちゃうと「こむずかしーい」ことが良しとされる。そのこむずかしさがアイデンティティでもあるかのように。西洋美術史は「聖書」と「ギリシャ神話」の形を借りて「エロ」を描いた。私は「エロ」のほうが好きなんだよ。基本、「自画像」とか描いちゃう画家は苦手なんだよ。とにかく「エロ」と「オレ様」というの、正しいと思います。


俳優で有島武郎の息子であった森雅之が三島由紀夫の「憂国」を読んで、これは繰り返しだといったという。「憂国」は、2・26事件に加わるつもりだった青年将校が、新婚の身を散らすのもいかがかと盟友たちに慮られ、叛乱の計画を知らされず、挙句の果てに叛乱鎮静側にまわらなければならなくなって懊悩し、自宅で新妻と最後の情を交わしたすえ、夫婦ともども自害する小説である。これを森雅之は、交情して絶頂に達していったん果てるのは一種の死であり、切腹やらしてをして死ぬのと等義ともいえるから、結局「憂国」は同じ物語をしつこく2つならべた繰り返しの小説であると喝破し、その旨を三島に告げた。(略)その森雅之の感想には続きがある。価値判断の問題である。世の中の人間は反復を好むものと厭う者とに分けられるが、森は後者であったようで、「憂国」をつまらないといった。いくら巧妙だろうが繰り返すことはしょせんつまらないことなのだ。(略)
百聞の小説には、もっと凝った繰り返し方もいろいろ見つけられる。(略)こうした繰り返しの要素はおそらく百聞の文学の肝心かなめであり、しかも百聞はそれを「憂国」のときの三島とは違って、いつもかなり自覚的にやっていたように思われる。おそらく森雅之の逆で、百聞は反復の魔にとりつかれていた。そんな見当は、百聞が音楽と鉄道の両方をマニアックに好んでいたということからおのずとついてくる。
  そもそも音楽というのはたいがいが一種の繰り返しなのだといってよい。1番、2番と歌詞がならぶ、いわゆる有節歌曲はむろん、旋律の繰り返しによってつづられ、西洋音楽の長い器楽曲も、パッサリアやシャコンヌのように同じ旋律の繰り返しを基にするものもあれば、フーガのように同じ旋律が同時にというかややずれて折り重なっておっかけっこするものもあり、ソナタ形式だってその眼目は、第1主題と第2主題が繰り返されながらどのように装いをかえるかをまず楽しみ、そして最後に主題がもとの姿にかえって素直に繰り返され再現されるところで、もとに帰れてよかったと安心を得ることにある。(サラサーテの盤~内田百聞集成(4) 内田百聞著 耳の小説、反復の小説、より )
  
↑「憂国」ってこんな話だっけ?と思い返しましたが、思い出せません。三島は好きだが、途中の「ぐだぐだ~」が好きみたいで筋をほぼ覚えていません。性交は「小さな死」といわれることもあり(フランス語だったっけ?)「憂国」は繰り返しの物語なのでしょう。繰り返しを好きか嫌いかというのは、個人差があり私は好きなんですよねえ。三島は「しつこく」説明しまくる作家なのですが(丁寧に説明しよう説明しようと思ってるうちに「装飾的」と言われてしまう。説明過多になるのって、他人に理解されることを信じていないからだ)私はその「しつこさ」を「うわ。かわいい・・・」と思う。
音楽も「繰り返し」。音楽好きなんて「しつこくて、面倒くさい」人種だ。そして、反復は熱狂を生み出す。古来の舞踏はそういうものだ。古来、音楽と舞踏は一緒だった。そして往々にして、「エロ」の香りがする。
・・・・と、書いてみて「こんなこと書く女」大丈夫か?と不安になってきた(笑)


20100131初版発行。


2014年12月13日 22:48

「人間嫌い」の言い分   長山靖生著  光文社新書 {社会} 
日本社会の「群れ」文化に触れ、明治の文豪の話や、少子化、「負け犬の遠吠え」などの話に言及します。
結局は「群れない」生き方を推奨します。
ただ、この本を手にする人は「そうそう」と同意をし、「群れる」人は「何いってるの?」と思うだけでしょう。啓蒙書にはならないでしょうね。「群れる」という選択肢を選ぶ読者を想定していないから。
日本社会は昔から「共感」を重んじており、自治会にしろ、選挙にしろ、会社経営にしろ、「おじさんたちの仲良しごっこ」です。酒の席にお酌をする「女性」が優遇されており、おじさんに物申す「女」なんぞ何の価値もありません。「責任者」として、取引先にいけばあの会社は「女」をよこしやがった・・・と思われるわけで・・・
はい。社会なんてそんなもん。今まで専業主婦だった団塊世代の母親が「女も知性を身につけ、独り立ちしなくては・・・」とか、自分の夢をおしつけ、四苦八苦してるアラフォー娘のいかに多いことか・・・既婚でも未婚でも。「女性管理職の登用」とか、言い出す始末。女性だから登用しようとしても、人材がいないとか。まあ、どの会社にも「男性社会に溶け込んでがんばってきた女性」しかいないでしょうしねえ。いまさら「女性の感覚、発想」とかって「外部」にしかないんじゃない?とか。きいた話では同じ「子育てウォーキングマザー」が「あんないいかげんに働くウォーキングマザーと一緒にされたくない」とかって「おじさん」に泣いて訴えたり・・・・「おじさんに愛されなければ」働けないようで、まあ、女性の働きにくいことこの上ない。昔、男女機会均等法成立のとき、「生理休暇」を撤廃したのが「生理などなくなった」であろう未婚の高齢の女性だったといいます。(生理は、個人差大きいので冷や汗かくほどの人もいるとききますが、おばあさまは「自分が軽かったのか」「自分も苦労したから、苦労して当然」と思ったんですね)働く女性は働く女性にきつくあたる。みんな一緒がいいから、自分の苦労は他人がして当然なのか・・・「勉強をしたり」「働いたり」を頑張るのが「悪」のような文化。日本社会では人並みにするのが最もよいとされておりますから、「じゃあ、私はどうすればいいの?」みたいに思うわけです、はい。頑張れない文化なんですよね。

もうね、私の感想じたいが「人間嫌いの言い分」になってしまっていて(笑)たぶん、日本社会にそんなに違和感を感じない人に上手く説明することができない。
「群れない」ことは生きにくいですよ、とても。それを美化して、そう思わない人にまで「群れない」ことをおススメしようとは思わない。当然、この本は「ニート」「うつ」時代の解答にはなっていないと思いました。

さて、本の帯と本文から抜粋しておきます。

「群れ」から離れれば、自由に生きられる。「ニート」「うつ」時代の解答。
「みんなと同じ」は、そんなにいいことなのか。みんなで赤信号を渡ってばかりきたから、今の日本はこのような状況になってしまったのではないか。
 人間嫌いを悪いものだとばかり考えず、もっとポジティブに評価してもいいのではないか。思うに人間嫌いは「問題」ではなく、世知辛い世の中の軋轢を適当に緩和する「解答」であるかもしれない。(帯)

企業は今後も正規雇用を極力控え、調整のしやすい派遣社員やフリーターへと人的資源をシフトしようとしている。まじめに働いていれば自動的に年次とともに給料が上がっていく時代ではなくなっている。これが男も女も同じく課せられている過酷な現代的条件だ。
 こうした状況が、女性たちをして「つらい思いをしてまで会社で働くより、結婚でもして楽をしようか」という気にさせる。一方、男たちのあいだでは「どうして自分だけが働かなくてはいけないのだろう」という不満が高まっている。これがちょっと前まで、恋愛・結婚の主導権を握っていると思われていた女性たちのあいだで、「結婚の困難」が表面化してきた理由だ。
  今時の男には、女性の人生をまるまる引き受けるだけの自信はない。そもそも女性の側でも、経済的な安定は欲しても、拘束されるのは嫌だと思っている。
  小倉氏(注:「結婚の条件」の著者)は、今も男子学生は結婚相手に専業主婦を望んでいると指摘していたが、実世界にでると、その度合いはいくらか下がるようだ。「結婚しても仕事は続けていいよ。君も社会とつながっていたほうがいい」という男は、確実に増えている。ただし、その真意は「自分の生活費は自分で稼いでくれ」である。
  もっとも、だからといって女性も怒るべきではない。これは男女は対等なので経済的にせよ家事にせよどちらかが一方的に全てを負担するのは不自然だと、男も感じている結果だからだ。「頼りがいのある男性」というのが、「お金のある男」の間接表現であるのと同様、「君も社会とつながっていたほうがいい」は「経済的に負担にならない妻」の間接表現なのである。男だって楽がしたい。

↑家庭の夫婦のすれ違いを、夏目漱石は書いた。小説に出てくるのは専業主婦だけ、とか。「道草」とか面白そうです。労働と家庭のあり方をいちはやく書いているようですね。


20041020初版発行。
2014年12月13日 18:08

チャイコフスキーがなぜか好き~熱狂とノスタルジーのロシア音楽~亀山郁夫著   PHP新書 {クラシック}
チャイコフスキーがなぜか好き。
私も「なぜか好き」。
なんで好きかがわからなかったものだから、読んでみた。が、しかし読んでも分からなかった。

チャイコフスキーという人はきれいな「楽譜」を書く。音の並びがきれいということ。そのことを、TVでヴァイオリニストが言っていた。そして、彼は続けた。「同性愛の人の楽譜ってきれいだから、譜面見たら分かっちゃうんですよね」

そういう精神構造とか、譜面が出てくると思いきや、ほぼ出てこない。
5人組のことやら、ショスタコーヴィチのことが中心。
みれば、この著者はロシア文学者。ので、ロシア作曲家(マニアックな作曲家も含め)の紹介ばかり。
ショスタコーヴィチは、政治がらみで知りたいけどその他は正直あまり興味がもてなかったなあ。

チャイコフスキーは最後のほうの死因のとこで、若干出てきたけど・・・・もっと知りたかったな、チャイコフスキー・・・・

20120131初版発行
2014年12月06日 22:39

オタクはすでに死んでいる  岡田斗司夫著  新潮新書{社会}
私はオタクだと思う。アニメもまんがも音楽も美術も・・・・マニアックに追求する。でも昨今のこの「おたく」文化に違和感を抱いていたので本を手にした次第。

昔、ボーイズラブなんて言葉はなく、「やおい」と称されていた。「やまなし・おちなし・いみなし」(諸説あり)と言われていた。同級生はこそこそと通販や書店の片隅にある雑誌を買った。漫画ではなく小説が多かった。若干、時代がかっていて明治の文豪風の小難しい文面だった。生死やら尊厳やらの重い話が中心だった。同人誌も商業向けではなく「好きな人」が作ったものだった。ファンタジー好き、時代劇好き・・・・などさまざまなジャンルのなかの一つだった。
それが書店にかわいい少女マンガ風の男の子が登場するようになる。内容がライトになり、気軽に読めるように・・・・この時期から違和感を感じ始めました。
今では「クール・ジャパン」とかいって、「アニメ文化」がもてはやされるようになった(メデイアでのとらえられ方が、オタクでもないけどブームだし知っておかないと・・・的な)

確かに、私はオタクです。ただし、オタク論を語り、教祖をめざしているわけではありません。私がしたいのは「オタクである私が自分の心象と照らし合わせ説明したい」と思っているだけなのであります。なぜなら、自分の興味のあることを、興味のない人にまで話したいという欲求は全くないからです。社会生活を営む上で、あまりオタク文化に馴染まない人に対しオタク文化を語りだすことはしない程度には社会性を身につけているつもりです。

昨今のオタクブーム・・・・「萌え」がわからないのは「オタクじゃない」と言われてしまうそうな。「オタクはすでに死んでいる」というより、「オタク」という定義が代わってしまった。なんだか私自身に別の呼称を作ってあげる方がしっくりするような気がしています。

日本文化そのものの幼児性も垣間見えるこの本。なかなかおもしろかったです。


<抜粋>
男オタクにとって、オタクやってることって、実は社会的にあまりストレスにならないのです。(略)でも女性は、そうはいきません。もともと女子というのは、まわりの人と一緒になって共感したり、交流したりして生きている生き物で、私たち男よりはるかに社会性が高い。ぶっちゃけた言い方をすれば、私たち男よりは、もうちょっと頭のいい高等動物です。
 そのため、女子オタクがやっていること、イコール自分のなかのジェンダーや恋愛感を問われることにもなってくるのです。自分そのものをどう認めるかという、アイデンティティ問題になる。周囲にあわせたいという女性的な欲求と、「周囲に認められない趣味」というオタク的な感性がぶつかってしまう。しかも、その「ぶつかり方」も一人ずつ違うので他人に相談もできない。
 また「やおい」や「ボーイズ・ラブ」というのは世間で思われているような「ホモの男性が好き」というのとは少し違う。「女という雑音(!)が入らない純粋な恋愛=やおい」と考えている女オタクは多い。なので「自分にとってのオタクを考える=自分の恋愛観を検証する」ということになってしまう。


「なぜ女性のオタクの中から岡田斗司夫みたいな「一般に向けての腐女子や、やおいを解説できるオタク」がでてこないんだ」というような意見を目にすることがあります。

↑「女性」と「オタク」というのは馴染まないアイデンティティであるという意見に全面的に賛成します。共感を重んじる社会性の高い女性は、人と馴染まないことを極端に恐れます。自殺する若者に男性が多いこと、女の子でも「わたし」と呼ばない女の子が多いのは「オタク」の子が多いことにも関係があると思うのです。
古来の少年の悩み「自分とはなんぞや」という問題をもろに考えると、人と共感はできない。その悩みは孤独に考えていかなければならないから。「女性である」ということは一種の逃げ道になりえたのではないでしょうか?おそらくそういった女の子は幼いころ「おひめさまごっこ」や「おままごと」で遊び、踊ったり歌ったり親の前でしたのではないでしょうか?「女性であること」を受け入れられなかった少女。それこそが「腐女子」の正体だと思います。

やおい・ボーイズラブというのは「女のオタク」のなかでも、特殊な存在です。好きな人も嫌いな人もどっちでもいいという人もいます。そんなわけで「BL」嗜好の女オタクと、そうでない女オタクの間には深い深い溝があるように思います。そんなわけで女オタクは団結しにくい。

ここで「やおい」や「ボーイズラブ」好きな精神構造を解説してみると、「自分を女性と認めることなしに」恋愛したいから。・・・・だと思うのです。
自分の肉体は女性で、それでもそれを認めることはできない。それでも、愛し愛される人に出会いたい・・・という幻想なのではないかなあ・・・と。正直、現実に直面してしまう「女性」が恋愛の登場人物だと、「恋愛」を楽しめないのです。ので「自分の身には降りかかることのない理想の恋愛」ということになります。
肉体に向き合うことがない「幻想」だからこそ熱狂するのでしょう。

ここまで解説してみましたが、ここまで解説しようとする「私」は「女性」であることをなかなか受け入れられませんでした。「女性」の「共感」の文化が苦手だったんですね。「女性」的な思考を身につけられなかった「私」は、こうやって書き込んでしまうわけで・・・・(苦笑)
女のオタクさんはこうだよ・・・ではなく「私の感性と照らし合わせた」考察でございます。

20080420初版発行
20080430第二版発行

2014年12月06日 22:19

◎乙女の美術史 世界編  堀江宏樹・滝乃みわこ  実業之日本社{西洋美術}
「乙女」でない人もぜひ、お読み下さい(笑)
黒と青の二色刷り!!
学生のノート的な感じ。教授の講義を聞いてこんなノートがとれたら「賢い学生」なんでしょうねえ・・・。注の位置も見やすくてすばらしい!!
で、文章はカジュアルしかも「二次元大好き女子向け」

とにかく、おもしろい。美術ってなんでしょ?実はこんなカジュアルな楽しみ方だってできるんだよ~という声が聞こえてくるようです。

まず題名をごらんくださいませ。

ツボや皿に同性愛アートが?!・・・・ギリシャの陶芸
超ナルシストな元・美少年・・・ダ・ヴィンチ
筋肉大好きのだめんず・うお~か~・・・ミケランジェロ
空虚さを美に変えた「おひとりさま男」・・・ボッティチェリ
「ホモはダメ!絶対」ぜんぶお尻がタブー・・・ボッス
「恋多き妻に萌えていたマスオさん」・・・フェルメール
テーマパークと化す教会と宮殿・・・バロックの建築
胸よりお尻がエロティック・・・ブーシェ
人見知りアントワネットの唯一の友人・・・ルブラン
「裸のマハ」はスペイン一の女傑?・・・ゴヤ
「考えすぎの人」はヒモ亭主で亭主関白・・・ロダン
美しくても選ばれない女・・・カミーユ・クローデル
おっぱいやおしりが大好きです・・・ルノワール
後追い自殺した妻との、実はうつろな関係・・・モディリアーニ
ゴーギャンとの病ンデレ愛憎劇のはてに・・・ゴッホ
「私は贅沢が好き」究極の甘えたガール・・・マリー・ローランサン
大女優サラ・ベルナールとの蜜月・・・ミュシャ
モデルたちを癒したセックス・セラピスト・・・クリムト
「永遠の子供」になりたかった男・・・エゴン・シーレ
妻を崇拝しつづけた、エキセントリックな狂信者・・・ダリ

↑題名だけで、面白いと思いませんか?ロダンはごりごりの「男尊女卑な男」なんですが、志賀直哉とか武者小路実篤といった白樺派の面々がロダンの彫刻を愛してやまなかったとか・・・文中でも指摘されているんですが、白樺派なんて「ダンディズム」を気取った奴等だから、親和性は高いですよね・・・モテルと思って、「ツン」を気取る・・・的な?この類の男、大嫌いだあ・・・(しかし、ロダン彫刻はマッチョで好き)
クリムトは「自分に興味がなく」シーレは「自分にしか興味がなかった」・・・という指摘も、全面的に賛成だなあ。クリムトは「職人」シーレは「自意識過剰なダメンズ」なんですよ。
モディリアーニは妻との関係の映画(仏映画だったかな?)を、みたんですが、まあ~どうしようもない男なんですよ・・・暗くてどーん・・・と落ち込むような映画でした。9ヶ月の子供を宿してモディリアーニを追って6階から飛び降りたという・・・・あの、縦長のお顔と、アーモンド型のうつろな目が苦手です。まねしやすいのか贋作が最も多い画家としても有名です。

その他、面白かった部分を抜粋しました。↓

美術史上に有名なルーカス・クラナハはふたりいます。父とその息子ですね(略)ドイツのルーカス・クラナハ(1472~1553)その父のほうです。ちょっぴり変態風味のお父さんですが!
  彼が好んで描いたテーマには、宗教的なものが多いとされます。ただ、聖書のヒロインやヴィーナスが登場するとはいえ、彼女たちは基本的に全裸です。しかもクラナハは、宗教改革で腐敗したカトリック教会を叩き、プロテスタントの流派を打ち立てた、マルティン・ルター(1483~1546)と熱き友情で結ばれた盟友でもありました。
  ルターの肖像も数多く描いているルーカス・クラナハですから、これらのエロティックな乙女たちは、みなルター公認、あるいは暗黙の了解を得ているということになりますよね。そもそも当時、乙女のヌードを描くには「宗教画」という口実が必要だったのです。(略)
クラナハの場合、代表作「ヴィーナス」にしろ「アダムとイブ」にしろ、背景はほとんどシンプルな暗闇。そこにほのかな光を浴びて浮かび上がる女性たちは、長い髪をその冷たくなめらかな肌の裸体に垂らした、スマートな乙女として描かれました。とにかく手足が長く無駄毛がなくて「つるつる」、胸は「ぺたんこ」。いわゆる「つるぺた」でありながら、身長がとても高く、頭が小さいという特殊なヴィジュアルの美女です。
  しかも、お腹だけ少し膨らんでいるという、現代の美的規準では若干不可思議に感じられる特徴もありました。クラナハが誕生する前から、北方ルネサンスの美女のイメージはこの通りです。(略)
  一番興味深いのは、美女たちの顔に浮かんでいる、冷たい笑みです。クラナハの人生を伝えるエピソードはさほど多くはないですが、彼が描いている女性の横には、しばしば男の生首があることから、彼自身もそういうSMちっく名テーマを愛し、彼の顧客にもそうした人たちが多かったのでは・・・・と想像されます。<宗教画はSM趣味の隠れみの?・・クラナハ>
↑クラナハのヴィーナスをみるたび、小説「ロリータ」を思い出します。「おじさんをもてあそぶ美少女」もしくは「西洋人形」を思い出します。澁澤の世界・・・。わたしは、この趣味を理解できずにいるのですが、最近の現代画家の美術展でも、この類の世界観が描かれていて、古今東西、人気のあるモチーフなのだなあ・・・と驚きます。この少女趣味ってどこまでが芸術なんだろう??「あやうさ」は犯罪臭がしますが「芸術なのか?これ?」


彼の描く少年は、リアルでとても不安定な存在です。たとえばボッティチェリの描く少年は、極論とすれば男でも女でもなく、美少年という性別の生き物です。ところがカラヴァッジョの描く美少年は、圧倒的にリアルな現実の存在です。熱い体温と体臭すら感じさせます。口元にはうっすらと生えかけのひげも認められるような・・・未完成な男としての美少年、刻々と男になろうと変貌中の少年をここまでリアルに描いたのはカラヴァッジョが最初ではないか、と思います。
しかも「カラヴァッジョ様式」といわれる、彼独特の光と闇の強いコントラストが、美少年という本来、とても不安定な存在をこれでもかと見せつけるのです。これがわれわれに「見てはいけないものを見てしまった」という、どこかばつの悪い感覚を感じさせます。
  現に「勝ち誇るアモール」は、性器こそ簡素な表現ですが・・・ほどよく日焼けした太股、さらにその付け根などに、ヤバいまでに強烈な光をあてられ、「丸見え」という感覚を誘います。
  このように対象をあまりに鮮烈に描くことで生まれる、めまいのような感覚が彼の画風の特色、まさに「カラヴァッジョ様式」の真骨頂であり、イタリアの「バロック」の醍醐味なのです。そして均整のとれた、光に満ちた明るい画面を描いたルネサンス風の美学は、カラヴァッジョの登場によって過去のものになっていったのです。
  なおバロックという言葉の語源は「歪んだ真珠(淡水真珠のこと)」ということ。ほめ言葉では当初、ありませんでした。しかしバロック時代の芸術家は自ら歪み、不安定な輝きを放つことで、ルネサンス時代に築かれた安定を失いつつある社会のありさまをキャンパスに写し取れたのでしょう。<傷だらけの武闘派ゲイ・ヤンキーーーーカラヴァッジョ>
↑これも「犯罪臭」がする。でも、クラナハの二次元よりも「力ずく」感がありますね。ので「ヤンキー」という表現はぴったりします。クラナハよりは「セーフ」だと私は思います・・・・


父の知り合いだったアゴスティオ・タッシと宮殿の装飾画を共同で行っていく中、彼に惹かれ恋仲になったようです。ところが父親のオラツィオが二人の関係に激怒し、アゴスティオ・タッシを「姦通罪」で訴えたのです。これがジェレンスキ19歳のときです。
  憧れの師匠と恋仲になる女性芸術家はけっこう多いのですが、その大多数がつまずくのが彼が既婚者だということ。最悪にもアゴスティオは、ジェレンスキには「僕は独身だよ!」といっておりました。しかも離婚が原則的にできないカトリック信者でありながら、「君とは将来的に結婚したい」と空約束していたのです。これはひどい!
  ジェンティレスキの悲惨さは、「不倫亭主」アゴスティオのエゴと欲につき合わされ、傷ついただけでは終わりません。父親がわが家と娘の名誉のために(というか娘をうっかり不倫させていた、自分の監督不行き届きを責められないように)起こした「姦通罪」の訴訟の中でアゴスティオとどこまで、どういう関係をもったのか・・・という、一見乙女が言いたくないことを、好奇心で瞳をいやしく輝かせる公衆の前で発言させられるという屈辱にさらされたのでした。
  しかも裁判の結果、彼女は「ふしだらな女」という烙印を押されてしまったのです。それは愛した父と恋人のエゴによって、無実の彼女がこうむった屈辱でした。ジェンティレスキは心から信じていた男性二人に裏切られ、身も心も傷つけられたのです・・・。
結局、ジェンティレスキは絵筆で男たちへの復讐を誓いました。彼女の代表作はなんといっても「ホロフェルネスの首をとるユーディット」。光と闇の明暗がくっきり分かれたカラヴァッジョ風の技術を、ここまで追求した例は数少ないです。
(略)また、彼女は自分の純潔を奪った男たちを責め、ナイフで自害するローマ時代の女性・ルクレティアをテーマにして描き続けています。ジェンティスキの言葉によると、自分の絵は「女に何が出来るか」を指し示したものなのだそうです。(略)
そして彼女の名・アルテミジアが、月と狩と純潔の女神・アルテミスに由来することは奇妙な偶然です。アルテミスはクールで、男性嫌いで、独身主義の女神でしたから。
<絵筆による「男」への復習ーーージェレンティレスキ>
↑描いていることはカラヴァッジョとそうかわらないのですが、女性ということもあり、また「女性」のありかたを考えてしまうと、応援したくなるジェンティレスキ。実は「サロメ」は世紀末美術に良く出てくる題材で(1593~1652)に生きた女性が描いたということに驚きます。(カラヴァッジョの同名の同じ構図の絵よりはるかにリアルとか・・・)フェミニズムなんて思想がなかった時代に力強く生きた。画力だって、カラヴァッジョに劣りませんよ!!応援したくなります。

ロセッティやその盟友のジョン・エヴァレット・ミレイは、ルネサンス以前の中世美術のもつ静謐さに憧れました。つまり新時代の芸術はルネサンス期のラファエロよりも前の芸術にもどるべきだ、というのが、「ラファエル前派」の名前の由来です。(略)ロセッティを擁護してくれたのが、当時の美術界の大物評論家ジョン・ラスキンだったのです。(略)
ラスキンの肖像画を描くためにミレイが邸に呼ばれていた1851年以来、ミレイはラスキンの妻エフィーと愛を育んでしまいます。世間は二人を非難しましたが、そこにはウラがありました。
  ラスキンは純潔を重んじすぎたヴィクトリア朝の男にありがちなことなんですが・・・女性に対してまったく無知なまま、もっというと絵画に描かれた女性以外をまったく知らないまま29歳のときに、19歳のエフィーと結婚しています。
  ミレイと恋に落ちたとき、エフィーはまだ処女でした。彼女は夫・ラスキンに昂然と「7年にわたり、結婚が達成されていない」として離婚訴訟をもちかけつづけ、1854年離婚を勝ち取り、再婚したミレイと8人もの子供をもうけるのです(女の意地を感じさせます。猛女といってもよいでしょう)。(略)
  1852年、ロセッティは愛称リジー、本名エリザベス・シダルと結婚していました。リジーは赤っぽい輝きのあるブロンドをもっており、赤毛の女にしか惹かれないロセッティの好みのど真ん中でした。
  そして病弱なリジーをいたわっているとき、ロセッティは自分が「精神の愛」に生きていると痛感できたのですね。詩人でもあり、画家でもあるロセッティは、自分を「神曲」のダンテの運命の恋人・ベアトリーチェとして接していたのです。
  しかし、これは一種の「ごっこ遊び」です。教養を背景にはしていますが・・・ラスキンだけでなく、ロセッティもいわば筋金入りの男子校出身者。学生時代を同性しかいない寄宿舎で過ごしていた彼らは、二次元はいいけれども、生身の女性と向き合うのが大変に苦手なままにオトナになってしまった人たちなのです。
  彼らにとって女性はいつまでたっても抽象名詞でした。さらに、ロセッティの「萌え」は二極に切り裂かれていました。それはリジーに代表される細身で病弱な女性との「精神の愛」。もうひとつは豊満な女性への「肉体の愛」です。ロセッティの絵の乙女たちは「これは女装男か」と思うほど首が太く、うねるような豊かな髪と、口角がクッと上がった分厚い唇、意思にあふれたまなざしをしていますよね(好き嫌いがはっきりすると思います)。つまりリジーとは正反対の女性です。
  この手の生命力に富んだ女性たちとの「肉体の愛」も、ロセッティは求めてやみませんでした。リジーはロセッティの浮気に苦しみ、ロセッティとの間に生まれた女児を亡くした1862年以来、アヘン中毒がすすみ、麻薬のオーバードーズ(過剰摂取)で死んでしまうのです。
  自分が妻を悲しませていたことを深く反省したロセッティは、自分の詩の原稿をリジーの棺桶に入れてやりました。そして妻の死を悼んで1863年に描かれたのが「ベアタ・ベアトリクス」です。
  赤い小鳥が運んでいるのは麻薬を象徴する芥子の花。もはや自分の内なる世界にしか幸せを見いだせないリジーは、恍惚として瞳を閉じています。ベアトリクスとはダンテの「神曲」に」でてくる女性、ベアトリーチェのことです。ところが1869年、妻・リジーの遺体と一緒に埋葬した詩の原稿がもったいないとロセッティは思ったため、墓をあばき、それを掘り出させております。妻の悲劇をもってしても、彼の勝手さを変えることはできなかったのです。
<二次元しか愛せなかった男子校出身者ーーーロセッティ>
↑世紀末美術・・・イギリスならではの闇が面白くラファエル前派はものすごく興味があります。ふわふわして、夢の中にいきていた。リアルな女性を愛せなかったオタク青年(元青年)に対して、私は、なんか妙に共感してしまうのですね。観念だけで生きてて、現実を見ていない・・・いや~、気持ち悪いですね。当時、イギリスは、全寮制の男子校が知識人のスタンダードでした。おそらく、生身の女性と接し、傷つくのをおそれ「二次元のキャラ」を愛し生きていったのでしょう。「女性」ってなんでしょ?わたしは「女性」という事実を認められなかったクチなので、彼らの恐れやとまどいが分かる気がします。「女性に生まれるのではなく、女性になるのだ」といいますが、いったいいつ女性になるんでしょうね?もう発言が「女性」ではなく「オタク青年」になってしまいました・・・(笑)
ごっつい男性のような女性と関係したロセッティ・・・自分に近いものを持つ「理解できそうな」相手でないと関係できなかったんでしょうねえ。理想の女性は怖くて実際に接することなく「理想のまま」にしておきたかったんでしょうねえ・・・妻が死んでも「妻を理想の女性」としてあがめたんでしょうねえ・・・・なんかホント、自分本位な「オタクな男・ロセッティ」・・・・

ちなみに「乙女のための日本史」という本もあり。こちらも面白いです。


2011年11月30日初版発行。


2014年11月28日 21:51

西洋美術史入門<実践編> 池上英洋著  ちくまプリマー新書
「西洋美術史入門」の続編。「名作はなにものか?」という話です。
鑑賞者があって初めて「作品」になりうる。という話が中心です。
そのため「修繕」の仕方(単に時代考証をしたものが「美術作品の修復となりうるのか」)ということや、戦争によって略奪された美術品は、だれのもちものか?ということが語られます。ナチスの略奪がらみの物語で興味深い文があったので、記しておきます。

<クリムト・アデーレ・ボロッホ=バウアーの肖像Ⅰ>
肖像画のモデルになったアデーレ本人はナチスによる接取以前になくなっていましたが、ユダヤ人一家だったために、夫のスイス亡命時にナチスが同作品を没収してしまいます。同作品はその後、ナチスから購入したオーストリアの美術館が持っていました。しかし、アデーレの遺言書に書かれた相続人の一人が、やはりナチスのユダヤ人迫害からアメリカに逃れて生活していたのです。一応「購入した」オーストリアと、アメリカで長い法廷論争が繰り広げられ、結局作品は2006年に、ロサンゼルスに住む相続人マリア・アルトマンへ返却されました。彼女はこれを数ヵ月後に、150億円近い額で化粧品大手のエスティ・ローダ社の社長に売却しています

↑これ、ひどいなあ・・・と思った。そういえばエスティ・ローダのクリスマス・コフレかなにかで
このクリムトの絵を見たことがあるような・・・・。買い取ったのね・・・・。

他には、遠近法の話(初期の宗教画では大事なものを大きく書き、遠近法が用いられてないです)とか、ジャポニズムの話でした。

20140310初版発行。
2014年11月28日 20:16

西洋美術史入門  池上英洋著  ちくまプリマー新書 {西洋美術}
美術史への最初の導入書として書かれたそうです。大学で専攻の学生むけではなく、他学部の初年度生にも開かれている講義の内容だそうです。
時代を追って絵画の詳細しか語られない本が多い中で「美術史」とはなんぞや、から説明した良書でしょう。「怖い絵シリーズ」のように、いじわるではないですからね。私は、この文章のほうが好きです。
西洋美術史は「教養学部」とか「哲学科」とか「文学部芸術学科」とか「史学科」とかなどで学ばれているようで、この学科で・・・とされていないのが現状のもよう。

西洋絵画は「聖書」「ギリシャ神話」を知らないと鑑賞できない。ということを聞いたことがあり、実際それは的を射た発言だったなあ・・・と思うばかりです。それは識字率に関係して文字が読めなかった人々に聖書を分かりやすくしたり、個人の好みのために多くはギリシャ神話の形をとってエロティックな絵画をお金持ちが描かせたり、自分は敬虔な信者だよーというアピールのために聖書ものを描かせたり。たいてい、どちらかでしょう。(どちらでもないものもたくさんあります。「神」という形をとらないヌードはセンセーションをおこしました)

さて、絵を読むための2つの練習が興味深かったので記しておきます。

1、「スケッチ・スキル」
美術史とは視覚情報を分析対象とするので、まずはヴィジュアルイメージを扱うことになれないといけません。方法はごく単純で、ある作品の写真か実物をみながら、それをノートにスケッチするだけです。ただ、膨大な量のイメージを対象とする学問ですから、1枚にじっくりと時間をかけて丁寧にスケッチすることはできません。ごく短時間で、小さな略図に直す訓練だと思ってください。
↑ボールペンしか持たず、色は「赤」「青」のように書き込むそうです。視覚情報を自分の脳内にインプットする訓練なのですね。これは、携帯やカメラが普及してしまうと逆に使っていないスキルだと思います。

2、「ディスクリプション・スキル」
「視覚情報を言語情報に変換すること」を意味します。言い換えれば、ある絵画をみながら、略図などを一切使わずに言葉だけで説明する作業のことです。作品記述(エクフラシス)とも呼ばれます。
↑図を使わず、人に説明するというのは難しいものです。もともとが視覚的なものを説明するとなると相当、高度なわざです。たとえば、本書の学生さんのノートの記述は「左の縦の辺の真ん中から上の横の辺の右側よりにゆるやかな曲線を描く。その曲線と辺の頂点から真下の方向に垂直な直線を描く。その直線の真下に少し小さめの真っ黒な円を描く。円は下の辺にくっついている。そしてその円の上から右方向に短い直線が生えている」
これでは、なんのことかわかりませんね。人間が視覚情報にいかに頼っているか、視覚表現によって人に説明している部分が大きいかが分かりますよね。


天秤をもった女性のイタリア版画が例に出されているのですがそれを「正義」と読むという。これは文化の中で「読む」ことができるわけです。文化の「外」の人にとっては単なる「女性」の版画です。そういう文化を知ったりすることも、西洋絵画の面白さだと思うのだよなあ・・・。

20120210初版発行。
2014年11月28日 09:31

まんがで読破「ツァラトゥストラはかく語りき」ニーチェ作 漫画/バラエティ・アートワークス イースト・プレス
ニーチェ:1844~1900。ドイツの哲学者。実存主義の先駆者であり
「生の哲学者」とされる。神、真理、自我などの既存の概念を逆説ともいえる論理で提唱し、文学・哲学の分野に多大な影響を及ぼした。

「神は死んだ」で有名な著書。まんがでさくっと読めるというもの。
グロテスクな物語と絵柄で描かれています。薄いにも関わらず、重い重い・・・・。

「神は死んだ」というのは、なぜ「神はいない」ではないのでしょう?キリスト教が欧米での「あたりまえ」であったわけで、この時代「死んだ」という言葉を使わなければ、常識を打破できなかったからのような気がします。荒治療とでも申しましょうか・・・その点が欧米文化の著者ならではの気がします。「輪廻」という思想も盛り込まれていて「東洋思想」の影響も垣間見えます。

ニーチェは西洋文化の中で、なくてはならない存在なのですが、ある意味、「時代の要請」という面もあるよね・・・とは思います。ニーチェを神とあがめた「教養を持った西洋文化研究の殿方」とはちょっと違った感覚を持ちました。

20080726初版発行
20100630第6版発行
2014年11月28日 08:31

この記事が参加している募集